× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
![]() |
ぬかるんだ山道を危なっかしく揺れながら車が走っていた。夜が明けて数時間、ようやく雨は小降りになり、風もやんだ。崖崩れで通れなくなった道を避けて大きく迂回する方法をとった葉たちは、すでに二時間半もの間退屈な時間を過ごしていた。携帯電話の電波は一本たったり圏外になったりと落ち着かない様子である。 「ねえ、もっと急いでよ!」 「るっさいな!だから飛んで行こうって行ったんだよ俺は」 「駄目よ荷物たくさんあるんだし」 「テレポートすれば?」 「帰りの車は?」 運転手ひとり残して帰る、という手もあるわよと紫穂が微笑んだ。おそらく脳裏ではぶつぶつ文句を言いながらハンドルを握る賢木の姿が浮かんでいるのだろう。 後部座席でやいのやいのと騒ぐ少女たちにうんざりしながら、葉はがたがたと不安定な道を必死で運転していた。これがいつもの外車じゃなくて良かった、とほっとする。あの大きな車だったら今頃崖から転落して目も当てられない惨状になっただろう。 とたんに玄関の付近が騒がしくなってきて、賢木が苦笑しながらドアを開けた。同時に三人の少女たちが飛び込んでくる。 「先生!」 「お疲れさん。大丈夫だったか?」 「ちょっと酔っちゃった」 「いやそうじゃなくて」 皆本は、中庭だよ、と交わされる会話を無視して葉はずかずかと中へ入って行った。部屋へ戻ろうとしたところで、背後から兵部は中庭だ、と声をかけられて方向転換する。いくら雨が上がったからと言って、ぐしゃぐしゃにぬかるんでいるだろう庭に病人が出るなんて、と思いながら葉は仕方なく賢木や少女たちと一緒に中庭へと向かった。 開け放たれた障子の外は明るい日差しとまだ雨の匂いに包まれていた。 その、こじんまりと庭の隅に立つ太い木の根元に兵部と皆本がしゃがみこんでいる。 「ちょっと、何してんスか少佐!」 古びた小汚いサンダルをつっかけながらふたりのそばへと駆け寄る。続いて四人も降りてきて、ふたりを見下ろした。 「どうしたの皆本?」 「ああ、みんなお帰り。昨夜はすごい嵐だったね」 どこか疲れた顔をしている皆本がにこりと笑みを浮かべた。目の下にはうっすらと隈が張っている。うるさくて眠れなかったのだろう、と薫たちは納得した。 「うん、停電になって大変だったよ。野犬の遠吠えとかさあ。おばあちゃんが怖い昔話するし……」 「こっちも色々あってさ。一応廊下とか掃除はしたんだけどね」 「何かあったの?」 「野犬が侵入してきて……」 「少佐?」 葉は兵部の隣りにしゃがみこんで顔をのぞきこんだ。少しばかり憔悴して青ざめた顔色の養い親を怒鳴りつけたくなったがぐっと堪える。 「何やってんの。中入ろうよ」 「うん」 「何これ?」 彼が見つめているものへ視線をやると、木の幹の下の方に刻まれた文字と、盛り上がった土があった。文字はちょうど子供の頭くらいの位置にある。何が刻まれているのかは判読できなかった。土は掘り返されたばかりのようで、周囲とは違う色をしていた。 「お墓」 「墓?何の?」 誰の、と言いそうになって、それは適切ではないと言い直す。 「うん……」 それだけ言って、まだ黙り込んでしまう。 浴衣の上に羽織った羽織だけでは寒そうで、葉は眉をひそめた。ゆっくり養生するためにここへ来たというのに、もっと悪くなっているような気がする。こんな姿を真木が見ればきっと血管がブチ切れるほど怒るだろうな、と思った。 「少佐、中に入ろう」 「そうしよう兵部。彼には僕が説明するよ」 言いながら皆本がぽんと兵部の肩をたたくのを、すばやく葉が振り払った。皆本は苦笑して腕を引っ込める。 「とは言っても、昨夜起こったことは話せるけど、それ以上のことは分からないけれどね」 兵部の様子がおかしくなったことや、なぜ、この下に埋まっているのだろう猫が姿を現したのかという説明は皆本にはできない。すっかり平らになっていた地面にさらに土をかぶせたのは兵部だった。あの猫が幻だとしたら、血まみれで倒れていた野犬の説明がつかない。だが確かにあのとき、獣の死体の他に何もなかったのである。 葉が兵部の腕をとって立ち上がらせ、背中を押して屋敷の中へと誘導していく。 兵部は一度ちらりと墓を振り返って、小さくごめん、と呟いたのだった。 「まったくおまえと言うやつは……」 くどくどと続くお小言を適当に聞き流しながら、葉はむっつりした顔でポテチを口に放り込んだ。隣りの座敷で兵部が寝ているためか声は抑えられているが、その分重々しい上に長い。顔を挙げると鬼の形相で睨まれるため目も合わせられない。 その日の昼過ぎ、真木はたてこんでいた仕事を超特急で終わらせ、瑣末なものは他の人間におしつけて旅館へ戻ってきた。さらに具合を悪くしている兵部と昨夜の話を皆本から聞かされて延々説教中である。 「どうして少佐のそばを離れたんだ!」 「いやだから、俺飯とか作れないし……」 「あの眼鏡野郎に頼んででも少佐についていろ!」 「……自分だったら絶対そんなことしないくせに」 「何言ったか?」 「いえ……なんでもありません」 じろりと睨まれてそっぽ向く。 そろそろ飽きてきた、と葉が逃げ出そうとしているところへ、かたんと音をたてて襖が開いた。二人が顔を上げると寝ていたはずの兵部が立っている。浴衣は乱れているし髪は寝癖がついてぴんぴん跳ねているが、顔色はずいぶん良くなったようだった。賢木が処方してくれた薬が効いたのかもしれない。 「少佐!」 「やあ真木お帰り」 「話は聞きました。昨夜は大変だったようですね」 「まあね。僕はあんまり覚えてないんだけど」 苦笑いしながらこちらへやってくるのを、真木が慌てて立ち上がり座卓の座布団を二枚重ねた。 「起きて大丈夫なの少佐」 「うん、平気。だいぶ楽になったよ。今日は鍋が食べたいな」 よっこいしょ、と年寄りじみたことを呟いて腰を下ろす。そそくさと真木が肩に羽織をかけて、お茶を注いだ。このまめまめしさにはまだ勝てない、とひっそり葉は思う。兵部に対しては自分も割と気を配れる方だと思っているが、ささやかな、子供っぽい反抗心や気恥ずかしさのせいでなかなか瞬時に行動に移せないのだ。こういうところがまだ子供だ、と、兵部や真木、紅葉などから思われていることには気づいていない。 「鍋ですか。それもいいですね」 「薫たちも一緒に」 「……あいつらもですか」 「いいじゃん、鍋は大勢で囲んだ方がおいしいだろ」 いい肉もあるんだし、とにっこり笑う兵部に勝てるはずもなく。 その日の夕食は、真木と皆本が争うように作ったおかずと大きな鍋でテーブルが満たされることになった。 年に一度はここへ来ることにする、と言いだした兵部に、反論する理由はなかった。よほどこの旅館が気に入ったのだろうか。 ただ気になるのは、真木がふと中庭を見渡した時に庭の片隅の大木の根元に小さな墓が作られていることだった。土は掘り返したばかりのものなのか明るい色をしている。近寄って見てみると近くに咲いている名前も知らない青や白い小さな花が添えられていた。兵部に聞いても、葉に聞いても何も知らない、としか答えない。ただ、翌朝早くに皆本が新しい花を供えているのに気づいて、真木はちょっぴり腹立たしくなった。理由は分からない。ただ、自分の知らないものをあの男が知っているのかもしれない、と考えて苛立たしくなっただけだ。 仕方ないので、真木は誰も見ていない隙をついて旅館の裏側、山沿いに咲き誇っていた大きな花弁の花を負けじと摘んでは墓らしきものに供えた。 後日それを知った兵部が爆笑しながら、おまえは本当にかわいいやつだね、と子供に対するときのように頭を撫でて真木をからかった表情はとても優しくて、けれどなぜかひどく切ない目をしていた。 ひとりでここへ飛んでくる分には何の苦労もない。 真木は、来年ここへ来るまでに花が枯れないように、ちょくちょく様子を見に来るようにしようとこっそり決めたのだった。 PR |
![]() |
「待て!」
慌てて立ち上がり廊下へ出ると、兵部は壁に手をつきながら玄関の方へと歩いていくところだった。早く、という焦りに足が追いつかないのか、何度かよろめきながらも踏ん張っている。賢木は深いため息をつくと、大股で彼に歩み寄り腕を掴んだ。 「どこへ行くんだ」 「行かないと。もう何十年もあそこで待っていたんだ」 「何を言ってるんだ?」 ぞっとして、意味不明なことを口走る兵部の顔をのぞきこむ。ひょっとして何かおかしなものにでも憑かれているのではあるまいな、と嫌な汗が額に浮かんだ。 「なあ、どこへ行くんだ。話してくれよ」 こういうのは得意じゃない。 ああそうだ、皆本に任せよう。こういうのは自分の柄ではない。病人はおとなしくしておけ、と叱りたい。皆本はどこへ行った?さきほど猫がどうとか言っていたような気がするが、気が動転していたのかろくに覚えていなかった。だが屋敷の中に獣が紛れ込んでいるのなら早急に手を打たねばならないだろう。 賢木の手を振り払おうとしてうまく力が入らず空振りすると、兵部は手を掴まれたまま再び壁に手をついて歩き出した。ぺたぺたと廊下を歩く足が寒そうで、スリッパを持ってきてやれば良かった、と賢木は少し後悔する。見ているこちらが寒い。電気に照らされた細いくるぶしは病的に白く骨ばっている。そうか、子供の体なのだ、と改めて思った。 「皆本!」 叫ぶと、遠くからこっちだ、と声がする。 ほっとして、賢木は兵部の腕を掴んだまま皆本の声がした方へとゆっくり歩いて行った。切羽詰まった様子は感じられない。すでに侵入してきた獣との決着はついてしまったのだろうか。 皆本は、ちょうど兵部や自分たちがとっている部屋の反対側、最も距離のある客室の前の廊下に佇んでいた。こちらに背を向けて床を見つめていたが、やがてこちらの足音に気付き振り返る。蒼白な顔をした兵部を見てやや目を見開くと、何か言いたげに口を開いて、小さく首を振った。 「大丈夫か?」 「……ああ。でも、あまり見ない方がいい」 それは賢木に向けて言ったのか、兵部へ向けた言葉なのか。きっと後者だろう、と判断して賢木は兵部の腕をはなして皆本へと歩み寄る。彼の肩越しに見たのは、床に倒れた大きな黒い獣だった。長い舌を出して絶命している。毛に覆われた体は鋭い爪で引っ掻かれ様な傷が醜く散らばり、床は血に汚れていた。腐臭と錆びた鉄の匂いに気分が悪くなる。 「これ、おまえが?」 「いや、違う」 猫が、と皆本が呟いた。 「さっきから何言ってるんだおまえら」 理解不能、という表情で賢木は皆本をちらりと睨んで振り返る。後ろでは兵部が茫然と立っている。彼はぺたりと床にはりついた足を重そうに上げて一歩進み出ると、賢木が制止しようとするのを避けて、倒れている獣の死骸を見つめた。 「兵部、さっきの猫、知っているんだろう?」 崩れ落ちそうになっている兵部の腕を掴んで皆本は確かめるように言った。 「僕が駆けつけた時にはもうこのありさまだった。さっき見た白い猫は消えていた。けれど、これをやったのはあの猫なんだろう?」 兵部は答えない。ただ、何かに耐えるような、ひどく悲しい目で黒い死骸を観察していた。賢木はわけのわからない苛立ちを抑え込みながら無言でふたりを見守る。 ちりん、と鈴の音が聞こえた気がしたが、幻聴なのだろう。 小さくこんもりと盛り上がった土の前から少年は動こうとしなかった。きっと寂しいだろうと思ったからだ。あと一時間後には自分たちはここを離れる。幼い彼には詳しいことは分からないけれど、緊迫した大人たちの表情やラジオから流れる不穏な言葉の羅列は世情が大きく動いていることを現していた。日々の訓練は本格さを増して甘えは許されない。おそらく、ここ数年のうちに世界は大きな変化を見せるのだろう、と彼は子供心に確信していた。だから、きっと次にここへ来ることになるのはもうずっとずっと先のことになるだろう。 土を踏みしめる音がして、男がそっと彼の背中をたたいた。 「そろそろ準備をしないと」 「……はい」 でも、とうなだれたまま首を振る。 友達が。 ひとりぼっちでここに眠っているのだ。 「京介くん」 諭すような、優しい声が頭上から降ってくる。兵部は必死で笑顔を作ろうとして、うまくいかずにくしゃりと顔が歪んだ。散々泣いた後だ。これ以上迷惑をかけてはいけない。 だが、男は少年を急かすことはせずに彼の隣りに立つと、木の根元に作られた小さな墓の前にしゃがみこんだ。 「毎年墓参りにくるのは難しいかもしれないけれど、またここへこよう。五年後、いや十年後に一緒に」 「一緒に?」 不思議そうに尋ねる少年を下から仰ぎ見て、男は微笑んだ。 「そう、一緒に。この子が寂しくないように。君の成長した姿を喜んでくれるように。忘れないでくれ京介くん。きっと一緒にここへくるんだ」 忘れないで。 彼女はきっといつも君を見守ってくれるだろう。 一緒にここへくるんだ。忘れないで。 その約束の言葉は結局果されることはなく、心の奥深くで眠りについたまま数十年目覚めることはなかったのだった。 |
![]() |
なぜ戻ってきたのだろう。
兵部は目の前の光景を眺めながらぼんやりと思った。 濡れた肩が寒くて体内に冷たいものが流れ込んでいくような錯覚にとらわれたが、たいした問題ではない。もとより何もかもが冷たい。 (戻ってきたのではないのか?ではずっとここにいた?) 墓は。 墓はどうなったのだろう。 (名前を刻んだ。そうだ、あの木の下だ。あの男が) ふいに顔を上げる。自分を心配そうにのぞきこむ男の顔が、かつてのあの人と重なる。別人だ。全然似ていない。顔のつくりも、匂いも、声の高さも、なによりその手の暖かさが違う。彼はこんなに冷たい手をしてはいなかった。 (……はずだ。たぶん) 唸り声をあげて、大きな黒い獣はとんと床を蹴ると白い猫に襲いかかった。皆本があ、と思う暇もなく猫は身軽にかわして小さくにゃあと鳴くと、誘導するように暗い廊下を駆けていく。淡く白い光が遠ざかっていく。獣がそれを追って舌から粘ついた涎を垂らしなら走った。ふたりの前から獣の匂いと荒い息遣いが遠のいて静寂が戻る。兵部が床に置いた懐中電灯と、皆本が手に持っていたそれの灯りだけがふたりの距離を照らしている。ばちばちと火花の音がして、廊下のあかりが一瞬点いてはまた消えた。電気が復活しそうだ。 「兵部、部屋に戻ろう」 座り込んだままどこかうつろな目で廊下を見つめている兵部の腕を掴んで引っ張り上げた。力の入らない足がぐにゃりと曲がる。腰に手をまわしてなんとか立ち上がるのを助けると、扉が開いたままの部屋へ彼を連れていき座らせた。 「見てくる」 放り出されたままの毛布を肩にかけてやり、彼が何の反応も見せないのを心配そうな顔で三秒ほど見つめてから、皆本は廊下を走った。天井がぶううん、と耳障りな音を立てたかと思うと、ぱっと電気がつく。どうやら停電は解消されたようだ。しばらく頼りない懐中電灯の灯りだけで闇の中にいたので、すぐには目が慣れずにくらくらする。 獣と猫はまだこの屋敷のどこかで戦っているのだろうか。そちらを探すべきか、それとも賢木のところへ行った方がいいか迷ったが、答えはすぐに出た。賢木がずぶ濡れになりながら玄関から駆けこんでくる。 「賢木!大丈夫か!」 「ん、まあ何とか。ちょっと腕引っ掻かれちまった。電気復活したな。中はどうだ?」 「さっき一匹見つけたんだが……。猫と一緒にどこかへ行ってしまった。外へ出て行ったならいいけどまだいるかもしれない。見てくる。おまえは怪我の手当てを」 「兵部は?」 「少し様子がおかしいんだ。見てやってくれないか」 「それはいいけど……」 怪訝な顔をする賢木にうなずいて、懐中電灯をポケットに突っ込むと玄関とは逆の方へと走った。厨房、となりの大広間、中庭に面した廊下。あとはひとつずつ障子を開けて部屋を順に見ていくしかない。 ちりん、と遠くで鈴の音がした。あの猫がつけていた首輪だ。 やはりまだ屋敷の中にいる。 無人の部屋の、床の間に飾られている壺が目について、謝りながら中の水をトイレに捨てて花をテーブルに置いた。心もとないし振り回すにはとてもリーチが短いが武器にしよう。箒ではもっと頼りないし、ゲームではないのだから都合よく鉄パイプや銃がさあどうぞと用意されているわけではない。 「あの猫は何なんだ」 光る猫など見たことも聞いたこともない。 それにあれを見た兵部の様子がどうにもおかしかった。 まるで、夢を見ているような。そんな表情をしていた。 あいつも夢を見るのだろうか、などと、どうでもいいことを思った。 「ったく、ひでぇ目にあったぜ」 タオルでがしがしと頭や服の水滴を拭いながら賢木はぼやいた。 見れば兵部は布団の山を背にして座り込んだままじっとうつむいている。 様子がおかしい、と皆本が言っていた。具合が悪くなったのだろうか。 賢木は兵部のことが嫌いだ。パンドラのメンバーでない限り、彼に好意をもつことは難しいだろう。それでも自分は医者だし、目の前に病人や怪我人がいればどんな極悪人だろうと診る義務があると思っている。自分はバベルのエスパーである前にひとりの医者であり人間なのだ。 「兵部、大丈夫か?」 そっと肩を揺らした。 銀色のふわふわした髪の間から蒼白な色をした顔がのぞく。 眠ってはいなかった。ただ、光を放たない闇色の目はぼんやりとしている。 「兵部」 もう一度今度は強めに肩を揺らし名前を呼ぶと、はっとしたように兵部は顔をあげて、呟いた。 「忘れてた」 「え?」 掠れた声が震えている。 「そうだ、なんでこんな大事なこと忘れていたんだ、僕は」 「兵部?」 何の話だ、と口を開こうとした時、兵部がいきなり立ち上がった。 「おい」 「ずっと待っていたんだ、あいつは!なのに!」 「兵部!」 追わないと、と呟いて兵部が部屋を出ていく。 よろよろと力ない細い体が揺れて賢木の視界から消えた。 「おい、待て!」 |
![]() |
かの日の<匂い>を思い出すことがある。
涼しくさわやかな秋の風。ひだまり。不穏な世情など外界のことのように思わせるような美しくおだやかな日々。口うるさいけれど何かと構ってくれる血のつながらない姉。眼鏡の奥の優しい目。大きく暖かなてのひら。心配そうに名前を呼ぶ低い声。森の奥の緑にそびえるコンクリートの研究所。立ち入り禁止のロープ。失敗した研究体。小さな体。駆けてくる軽い足音。揺れる白。 (ちりん) 鈴の音が聞こえた。暗闇で光る緑と金色。 (ちりん) 幼い子供は嬉しそうに手をさしのべる。 「おいで」 ずっと一緒にいた。たった三日間だけの親友だった。 あくる朝、庭を見渡すと、白い小さな塊がぐったりと倒れていた。 血の匂い。無残な噛み跡。赤い水たまり。 親友は生気を失った濁った眼で、わずかに顔を持ち上げると、子供に向かって最後の別れのあいさつをしたのだった。 「にゃあ」 +++++++++++++++++++++++++++++++ 真っ暗な中で懐中電灯をそっと廊下の端にあてた。 まさか、と思いながら、兵部は確信していた。 そんなものは信じない、と言いながら頭のどこかで考える。 そんなことも、あるだろうと。 「おまえ……」 名前はなかった。ただ一緒にいただけだ。数十年前の懐かしい記憶。 ふいにがたんと何かが開いて、奥から床をゆっくりと踏みしめる音が近づいてきた。 唸り声と獣の匂いが充満する。とっさに照らしてその正体を確認すると、兵部は毛布を放り投げながら緑の光へと走り寄ろうとした。しかし緑は兵部よりも早く動いた。彼と獣の間を隔てるようにして白くぼんやりと光る小さな塊が飛び降りる。ちりん、と鈴の音がした。一瞬その白い塊が振り返った。見覚えのある顔だ。利発そうでいて、どこかさみしげな色をしている。 「どうして」 ウウウウウ、と獣が喉を鳴らした。良い獲物が飛び込んできたと舌なめずりをして構える。 「だめだ!」 叫ぼうとしたが、喉の奥に何かがつかえたように声が出ない。ESPで獣を撃退しようと考えるも、薬のせいでぼんやりとした頭はなかなか集中してくれなかった。強い眠気を振り払うようにぎゅっとまぶたと閉じてもう一度開けると、自分が照らした電灯の灯りのせいでチカチカと目の前に幾何学模様が浮かぶ。 獣は動かない。ふんふんと鼻を鳴らして、兵部と白い塊とを交互に見る。どちらを先に狙うか迷っているようだった。自分の方へ向ってくればいいのに、と兵部は思った。もしあの猫があのときの猫だったとするなら、なぜ今頃になって姿を現したのか。どういう理由にせよ、二度と同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。あのとき深夜に吠える野良犬を撃退していれば、彼女はあんなことにはならなかったのだ。 「兵部!」 大声を張り上げながら男が走ってきた。ぽたぽたと廊下を濡らしながら皆本が懐中電灯を頼りにやってくる。なんだいそのみっともない格好は、と皮肉を言おうとして、けれどやはりまともに声が出ずに兵部はぼんやりと彼が手に持つ電灯の灯りを見つめる。獣はまたしても現れた闖入者にわずかに後退したが、敵意のこもったまなざしでこちらを振り返って牽制するように唸った。 「大丈夫か?」 言われて、兵部は自分が廊下に座り込んでいたことに初めて気づく。 皆本は彼のとなりにひざをついて同じようにしゃがみこむと、兵部の肩に濡れた手を置いた。じんわりと水が染み込んでいくのを感じて小さく震えると皆本は小さな声でごめん、と言って手をどけた。何がごめん、なのか兵部には分からなかった。 「あの猫、は?」 当然の疑問だろう。暗闇の中で発光しているのは瞳だけではないのだから。 浮かび上がるように淡い白色を放つ毛並みは、それがこの世のものではないことを象徴していた。それでも恐ろしく感じないのは彼女に対峙する獣が悪意と殺気に満ち満ちているからだろう。腐った水のような臭気が大きな獣から放たれていて、皆本は息がつまりそうだった。 「兵部?」 説明を求めるように顔をのぞきこんで、だがぼんやりと目の前の光景を眺めている兵部がただならぬ様子なのに気付き眉をひそめる。 「大丈夫か?」 同じ質問を繰り返したが、隣りに座り込んだままの銀髪の少年からいらえはなかった。 |
![]() |
「賢木!」
玄関へと向かった皆本は、開きっぱなしのドアを支えながら叫んだ。暗くて何も見えない。吹き荒れる雨風がすぐに彼を濡らしていく。 ばちばちと感電するような音が聞こえたかと思うと、屋敷の内部が真っ暗になった。 「停電か!?」 まずい。これでは何も見えない。 懐中電灯を照らし目を凝らす。 「賢木!返事をしろ!」 どこへ行ったのか。不安を抱えてもう一度怒鳴る。 「皆本!くるな!」 「賢木?」 意外と近くで賢木の声がする。同時に濡れた土を踏みしめるぐちゃぐちゃという足音と、何かと争っているような音もするが、強い雨と風で消されていく。 皆本は決心すると一歩外へ踏み出した。頼りになるのは懐中電灯の弱々しい灯りだけだ。 「くそっ、こいつ……!」 「賢木!」 暗闇の中でうごめくものが見える。見慣れた賢木の後ろ姿と、彼と真正面から対峙している大きなもの。 「それは……」 「分からねえ、でも狼みたいだ」 ふ、と息を吐いて、手にしていた長い木の棒を振ると、ぐるぐると喉を鳴らして黒い塊が飛び退く。 「一匹じゃない、何匹か辺りをうろうろしている。気をつけろよ皆本」 「賢木、振り切って中に逃げよう!」 「分かってるよ!さっきから何度もそうしようとしてる!けどしつこいんだよ!」 飢えた狼か野犬がここぞとばかりに獲物を狙っているのだろうか。 がたん、と大きな音が響いた。屋敷の玄関からだ。 「まずい、屋敷の中に入り込んだかもしれねえ!」 「扉はちゃんと閉めてきたはずだ」 叩きつける雨のせいで声がよく聞こえない。ふたりは大声を張り上げながら、何とかタイミングを見て獣を振り払おうと試みた。 皆本の背後でがりがりと木を削るような音がする。玄関に爪をたてているのかもしれない。同時に、がしゃんと窓ガラスを割れた。屋敷の部屋や廊下の窓はすべて雨戸を下しているが、トイレやキッチンなど一部には雨戸が取り付けられていない個所がある。風で割れただけだと思いたい。だが、もし獣が入り込んでいたとしたら? 「皆本、ここはいい、俺が何とかする。おまえはとにかく中へ!」 「けど!」 「兵部がいるだろ。あいつは今戦えない。いや、戦えるかもしれないが危険だと教えてやった方がいい。何か武器になるものを持って行け」 よく確かめもせずに外に出た俺が相当うっかりさんなんだよ、と賢木は笑ったようだった。 「大丈夫だ。行け!」 力強い声に後押しされるように、皆本は走った。懐中電灯の光は一定の場所を照らすだけで周囲はまるで把握できない。慎重に手探りで玄関の壁に手をつく。近くでウウウウウ、と獣が唸る不気味な声がする。懐中電灯を消した方がいいだろうか。自分の居場所を教えるようなものだ、と一瞬考えたが、それでは自分の方が危険だとすぐに考え直す。相手は鼻の利く獣なのだ。自分の足元がおぼつかない方がよほど危ないだろう。 全身ずぶ濡れになりながらドアノブに手をかけた。獣の荒い息はそう遠くない場所でこちらをうかがっているようだ。意を決して細く扉を開ける。すばやく体をすべり込ませて中へと入った。ぽたぽたと全身から水が垂れ落ちては玄関を濡らしていくが構っている暇はなかった。さすがに獣は器用に扉を開けて中へ侵入するようなことはできないらしい。そりゃそうだ、エスパーアニマルじゃあるまいし、と息をついて、真っ暗な屋敷内部を照らす。まずは武器だ。あの割れた窓ガラスから獣が入ってきたのなら素手で格闘するのは無謀だろう。兵部ならESPで軽く倒せるだろうが、今の彼の状態でそれができるか大いに疑問だ。わざわざ部下が一緒についてくるくらいだ。おそらく普段の兵部と同じだとは考えない方がいいだろう。 「なんか調子狂うな」 敵の首領の心配をすることになるなんて。 だが皆本は、兵部のことは大嫌いだが彼が傷つけばいいなどと思ったことはない。それを彼に言えばきっと、お人好しすぎるだの奇麗事だなどと嫌味を言われるのだろうが。兵部が冷めた目で罵る顔が脳裏によぎる。馬鹿じゃないの、そんなんだから大事なものを守れずに絶望するはめになるんだよ、とか何とか。大事なものを守れずに絶望したのはかつてのおまえなんじゃないのか、なんて、聞いてみたいけれど、とてもじゃないが言う勇気はない。 「兵部!聞こえるか!」 さっきの窓ガラスが割れた音は聞こえているはずだ。 「兵部!」 叫びながら、玄関にたてかけてあった箒を手にとり真っ暗な廊下を進む。 しんと静まり返った廊下の奥で、ちりん、と鈴の音がした。 |
![]() |