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弱ったな、と兵部は詰襟に指をかけながら苦笑いを浮かべた。
自分ひとりが夢の世界をふらふらするのは構わない。懐かしい光景も見れたし、いまとなってはああそんな時代もあったな、と回顧するだけで、ずいぶんと胸の痛みも和らいでいる。 過去を振り返って涙を流さずに泣くのはもうやめてしまった。 いつの間にか生きている今が楽しいと、そう思うようになったからだ。 もう潮時だろうと、このまま停滞していても意味はないだろうと画策してみてもチルドレンと皆本の強い意志によって阻まれてからすっかり開き直ってしまった。 停滞しているのではない、当初予測していたものより大幅に違う方向へ進んでいるのだと。 未来が、ではない。自分が、だ。 もちろんそんなことは誰にも言えないし言わないけれど、どうにも真木あたりには気づかれているのではないかと思う。 (そういや最近っていうかここ数年あいつ反抗的だしなあ) 命令だぞ、と睨み据えても、それが兵部自身のためにならないと判断すればさらりとかわしてしまう技をいつの間にか身につけてしまった。本気で怒れないのはそれが自分を心配しての行為であることに気付くからだ。 自分は変わったのだろうか。 もしそうなら、変えたのは誰だ。 「少佐……」 困惑したような、どこか幼い日の彼を思わせる深い目を見つめて兵部は笑った。 さて、どうしようか。 どうやら自分の姿は真木以外には見えていないようだ。 帰れ、と言っても方法が分からない。 手っ取り早く自分の「本体」が目を覚ませば一件落着しそうだが、残念なことに「ここ」にいる兵部はどうすればいいかさっぱり分からなかった。 寝ているときに、ああ自分は今夢の中にいるのだな、と自覚することはこれまでになかったことだ。ときおり、そういう人間もいるようだが割と珍しい方だろう。 夢の中ではノーマルだろうと空を飛べるし、怪我をしても痛くないし、意味不明な言動をとってもそれがおかしいと気づかない。 ごちそうを目の前にしてさあいただきます、というときになって目覚ましのアラームがなるのはお約束である。 真木は何か言いたげにしているが、どうすればいいか分からないといった表情で悶々と悩んでいる。 兵部は手を伸ばして、真っ黒な長い髪の毛をすくってみた。 「あ、けっこうリアルな感触だな」 ふふ、と声をたてて笑うと、びくりと髪が触手のようにうごめいた。 神経が通っているかのような反応にますますおかしくなる。 「少佐が我々をここへ導いたわけではないのですね?」 ようやく、一番気にしているのだろうことを真木がたずねた。 「違うよ。こんなこと望んだってできることじゃない。僕は自分の夢を操ることはできない」 「では……」 不思議な光景だ。 真木が他の誰にも見えていない兵部と会話をしているのに、誰も気づかない。 ひょっとすると透明な壁が真木と、そのほかの者たちとの間にできているのかもしれない。けれどその透明な壁の向こうでは楽しそうな会話が聞こえてくるのだから、どうやら壁の役割は一方にしか果たされていないようだ。 「真木、ちょっと立ってみて」 「はい」 言われた通り、そろそろと腰を上げる。 誰も気づかない。 「声かけてみて」 「はい」 真木はうなずいて、皆本たちの会話に混ざろうとした。 「すまないが、」 大きくはないがはっきりとした声で割って入る。 だが誰も気に留めることなく、じゃあ今夜の夕食担当は、などと話を続けていた。 会話の中では夕食担当として真木の名前も普通に入っているが、肝心の当人がさっぱり会話に参加していないことに誰も疑問を抱いていない。 「おい、俺の話を……」 「じゃあ、それでいいな。今夜の夕食は僕と真木、それと賢木の三人で作る」 「ずいぶんと男くさい料理になりそうね」 紫穂の言葉にいっせいに笑いが上がった。 「いや、俺は……」 「それじゃちょっと食材を確認してこよう」 「そうだな」 皆本と賢木が立ち上がり、真木を通り越して居間を出ていく。 やはり真木がついてこないことに気付かない。 存在していることは当たり前だと思っているのに、そこに入ってこない真木を誰も何とも思わない矛盾。 このもやもやとする気味の悪さには覚えがある。 「そうだ、夢、だからか」 「そうみたいだね。夢の中ではどんなおかしな状況であっても、それが変だとはなかなか思わないものさ。きっとあいつらの中ではおまえがいることは当たり前で、見えていないことや声が聞こえていないことも当たり前なんだろう」 本物(と思われる)の兵部とコンタクトがとれるようになったと思ったら、今度は一緒にここへ放り込まれた皆本たちと繋がらなくなってしまった。 じゃあいっしょに夕食を食べることもできなくなるのだろうか。 おそらく、ひとりぶん食事が余っていても誰も気づかないだろう。 「仕方ない。真木、君は僕と一緒においで」 「どうするんですか?」 「分からないけど、会話できる者同士が一緒にいた方が安心だろ?」 それはその通りだ。 PR |
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君たちは何が食べたい?と尋ねる皆本と、それに答える不二子と兵部らを黙ったまま眺めていた真木だったが、ふいに目の前がぐらりと揺れるのを感じた。 (なんだ?) 眩暈でも起こしているのだろうか、と眉間をぐりぐりと揉んでみたが、気持ちの悪さはない。それよりも、たとえるなら3Dメガネをかけているような妙な感覚だ。 現実に見えている世界に被さるようにしてもうひとつの世界が二重写しになっているような。 はたして今自分が見ている光景は本物なのか。 (違う、夢だ。でも) 透けて見えるのは、いつもの黒い学生服を着た兵部だった。 「少佐」 かすれた声で呟くが、誰の耳にも届いていないようだった。 兵部は子供時代の自分たちと、皆本らがなごやかに談笑しているさまをじっと見つめている。表情は読めないが、真木は胸が締め付けられるように痛くなった。 「少佐」 そこにいるんですか。 手を伸ばそうとして、体が思うように動けないことに気付く。 兵部は僅かに目を細めて、懐かしいような、切ないような、黒い瞳でただ優しいだけの光景を見守っている。 どちらが、本物かなどと。 考えるまでもなかった。 真木の知っている兵部京介は、中身は老人でも外見は十五歳くらいの少年で、老獪さと子供っぽさが同居していて、冷酷さと優しさに満ちていて、子供が好きで、誰よりも強くて、誰よりも意地っぱりなただの人間だった。 可愛いな、と誰もが思うだろう子供時代の兵部は真木の知らない世界の知らない人間だった。きっと幸せな未来がくるだろうと信じているような、無垢できらきらした少年に心当たりはないのだ。 喉の奥が震えたようだった。 声が出ない。 呼びたいのに。 「真木」 聞きなれた、耳になじみきった声に真木ははっとした。 ここに非現実的な(すでにもう非現実的な世界にいるのだが)光景がすぐ目の前で繰り広げられているというのに、どうしても誰も気づかないんだ。 薄い膜が張ったように、学生服姿の兵部の向こう側では平和な団欒が映し出されている。誰も真木のことを気にしないのは、彼が無口で干渉されることを嫌う人間だと思っているからだろうか。おそらく、どう接していいか分からないに違いない。 だからと言って無視することはないだろう!と歯がゆく思う。 もしここに葉や紅葉がいれば、きっと気付くはずだ。 どうしたんだよ真木さん、顔色悪いぜ、とか。 どうしたの真木ちゃん、幽霊でも見たような顔して、とか。 (ああもう!) 「真木、ごめん」 なぜ謝るんだ! 行き場のない怒りににた疲れが、誰よりも大切な存在へと八つ当たりしそうになる。 もしここで叫びでもすればみんな気づくだろうか。 だが声が出ないのだ! (どうしてこういう事態になったんですか) 心の中で必死に呼びかける。 ここが夢の中であろうと兵部の意識の中の世界であろうと、きっと伝わると思った。 案の定、くすりと笑う気配がする。気配がするだけで、目の前にいる兵部は変わらない表情だった。気のせいだったのだろうか。 「僕もさ、夢を見るんだよ」 (ええ、そうですね。知ってますよ) 「悪夢ばかりじゃなくて、懐かしくて恥ずかしいな、なんて思うほど平和だった時代のこととか」 (それは初耳です) あまりその話は聞きたくない、と思ったが、伝わらないように自制した。 自分の知らない、兵部の幸せそうな顔なんて興味はないのだ。 なぜならそこに自分がいないではないか。 「でも僕は君に見てほしかった。皆本にも知ってほしかった。目を覚ませば忘れるだろうけど」 皆本にも、という言葉に真木は眉尻をぴくりと上げたが、黙っていた。 真木は知っている。兵部は皆本という男を憎むと同時に、本当はもっと違う感情を抱いていることに。 彼がどこまでチルドレンを信じていられるか。それを試していることに。 いつか裏切るよ、と言いつつも、裏切らないでいて欲しいと願い、それでいて薫には自分と同じ苦しみを受け止めてほしいと思っていることも。 矛盾しているのだ、兵部京介と言う男は。 (それで、こんな昔の夢を?) 「違うんだよ。見せてやろうと思ったのはもっと後。でもうまくいかなくて」 (もっと後) それが何を指しているのかすぐに理解した。 (俺は見たくないですね) 「そうだよね。やっぱり嫌だよねえ」 (あなたチルドレンたちにトラウマ植え付けるおつもりですか) 「そうだよねえ」 のんびりした口調と内容が合っていない。 (あなたは俺の知っている、兵部京介少佐ですよね?) 「どうかなあ」 そう言って、兵部は振り返って真木を正面から見ると、今度こそはっきりと笑った。 「君の知っている僕はごく一部かもしれないよ」 |
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お姉さんたちはどこからきたの、と純粋無垢な笑顔で聞かれて、薫たちは答えに詰まってしまった。
賢木が薫の脈をとりながら苦笑する。 まさか、未来の君が寝ている病室から、なんて言えないだろう。言っても理解できるわけがない。そもそも自分たちですら、よく分からないのだから。 「えっと……。ずっと遠いところだよ」 「ふうん?」 納得したようではなかったが、あまり突っ込んで聞くのは悪いと思ったのか兵部は大人しくうなずいた。誰が見ても賢い良い子である。 「今日は泊っていくよね?不二子さんが、二階の客室見といてって言ってたから」 「ありがとう。ごめんね、大人の人誰もいないのに」 「いいよ。でもご飯どうしようかな」 「君たちはどうするつもりだったんだ?」 不二子がお手伝いさんを帰してしまったらしいが、それならどうするつもりだったのか。彼女も、そしてこの子供も料理ができるとはとても思えない。 「缶詰くらいあると思うけど……。お客さんに缶詰ってなんだか変だよね」 ごめんなさい、と、彼が悪いわけでもないのにしゅんとうつむいてしまった。 おもわず賢木は手を伸ばして、艶やかな黒髪のてっぺんを撫でる。 (おっと) ほとんど無意識の行動だ。未来の兵部京介と似ても似つかない態度で本当に良かった。考えるとちょっぴり気持ちが悪くなるので、この少年と自分の知る兵部京介とは別人だと思うことにしよう、と心に決める。 「食材があれば作ってあげられるわ」 「本当?」 紫穂の言葉にぱっと笑顔が咲いた。 「うん。皆本さんと先生が」 「て俺らかよ!」 自分たちがやります、という発想には至らないのか。 横目で睨んだが、逆に睨み返されてしまった。 「薫ちゃん、具合はどう?」 「うん、もう平気。ごめんね心配かけて」 「昨日夜更かしするからや」 「夜更かし?」 「気づいてたの?」 いくら同じベッドで三人寝ているからと言って、すぐに寝入ってしまったと思われた葵に気付かれていたとは。 「薫ちゃんごろごろ寝がえりばっかりうってたでしょ」 「ごめん……」 「少佐のこと心配してたのね?」 そっと耳元でささやくと、薫はうなずいて、きょとんとしている少年に笑いかけた。 「ただの寝不足だよ」 「そう……」 ならいいけど、と言いかけたところで不二子の軽やかな足音が近づいてきた。 「京介、二階の部屋は?」 「うん、奇麗に掃除してあったよ。泊ってもらうんだよね?」 「仕方ないでしょ。もう日も暮れるのに迷子を追い出したら罰が当たるわ」 中学生と大の大人がそろって迷子というのもおかしな話だ。 「それより不二子さん、夜ご飯なんだけど」 「貯蓄倉庫に缶詰があるわ」 やっぱり。 がっくりとうなだれて、兵部は不二子の腕をとると彼女に小声で伝えた。 「お兄さんたちが、食材さえあれば作ってくれるって言ってるよ」 「あら本当?じゃあ任せましょ」 「ええええ。いいの?だってお客さんだよ?」 「何言ってるのよ、招待した覚えはないわ」 「確かに」 後ろから声がして顔を上げると、長身のふたりがお盆を手に立っていた。 皆本は苦笑を浮かべて子供たちをテーブルへと促す。 「泊めてもらうんだし、そのくらいのことはさせてくれ」 な、と振り向く相手は真木だ。 彼が果たして食事の支度などするのかどうか分からないが、何となく器用そうだと思いながら問いかけるように見ると、意外にも真木はあっさりうなずく。 「芋の煮っ転がし好きですよね?」 突然、そんなことを丁寧に聞かれた兵部は目を丸くしたが、こくんとうなずいた。 「なんで知ってるの?」 「さあ……なんででしょうね」 子供の兵部京介を見て何となく懐かしい気分になるのは、きっと古い写真を目にしたことがあるからだ。 真木は薫たちと夕食の献立についてにこにこしながら会話をしている兵部を眺めながら、味のしない紅茶を口に含む。 そしてふと思った。 もしこのままずっとこの流れにそっていけばいずれ、話だけ聞いた惨劇を目にすることになるのだろうか、と。 |
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「なーんか見覚えがあると思ったら……」
ふたりの子供が入って行く別荘を見上げて、賢木が言った。 「そうか、ばあちゃんが言ってた別荘て私ら来たことあるやん」 「スキーでね」 「真冬にね」 バベルのメンバーで慰安旅行に来たのがここだった。あのときは一面雪で真白だったし、外観も少しばかり違って見えたが確かに目の前に立つ白い建物と同じだ。 ひとりだけ、真木は無言のまま、すでに見えなくなった子供の兵部の背中を見つめている。どうしようか迷っているようにも見える。 「何してるの、こっちよ」 玄関から不二子が顔をのぞかせて手招きをする。 それに誘われて、一同はおそるおそる中へと足を踏み入れた。 モダンな造りの内装は広いロビーの右側に二階へと続く階段が伸びており、吹き抜けの天井は高く豪奢なシャンデリアがぶら下がっている。一階には左右に扉が数個、奥へ続く廊下は食堂へ伸びていることを皆本たちは知っている。その先には露天風呂。二階は個人の寝室が十二、一番奥に天井裏へと続くはしごがかかっている。 だが迷いもなくうろつくのも変だろう、六人は促されるまま不二子についていった。 導かれたのは一階の応接間である。廊下から出入りする扉とは別に壁にも扉があり、そっちは食堂と応接間との間に設置されている休憩室のようなものだ。おそらく男爵や政府の要人が酒を酌み交わしたり話し合いをするのに使用されるのだろう、密談には最適な造りになっている。 「あそこの休憩室、隅っこにビリヤード台があったよな。今もあるのかな?」 「どうかな……」 小声で会話を交わしながら命じられるままにソファに座って一息ついた。 「お茶くらいなら出してもいいわ」 「手伝うよ」 さすがに、貴族の娘に給仕をやらせるわけにはいかないだろう。そうでもなくても幼い子供に六人分のお茶を運ばせるのは酷である。そもそも自分たちは招かれざる客なのだ。 「そう?じゃあそうしてくださる?」 あっさりうなずいたところを見ると、やはりそう言いだすのを待っていたらしい。 皆本は一緒に立ち上がりかけた薫たちを制したが、真木が無言でくっついてきた。何かしていなければ落ち着かないのか、あの場にひとり取り残されるのが嫌だったのかもしれない。 見覚えのあるキッチンへ入ると、とたとたと軽い足音が聞こえて少年がやってきた。着替えたらしく小奇麗な服装をしている。こうして見るとやはり貴族の子弟と言った雰囲気で、育ちはいいのに何でああなったかなあ、とぼんやり皆本は思った。 「京介、あなた二階の部屋見ておいて」 「分かった。そうだ、具合悪そうなお姉さんがいたけど大丈夫かな?」 薫のことだろう。きちんと自分の足で歩いてはいたが、顔色は悪かった。 皆本は食器棚からカップを取り出しながら、少年を安心させるように微笑む。 「もうひとりいたあのお兄さんはお医者さんだから、大丈夫だよ。少し休ませてあげてほしい」 「はい」 と、良い子のお返事。 兵部は出入り口に突っ立っている真木をすれ違いざまなにちらりと見上げて、出て行った。 「ねえあなた、そんなところにぼけっと立っていたら邪魔よ。手伝うか、居間に戻るかしてくださらない?」 不二子が腰に手を当てて威嚇するように真木を睨みあげた。 真木は一瞬眉をひそめたが、小さくすまん、と呟いて皆本から盆を受け取る。 (うーん、すごくやりにくい……) だがそれはきっと真木の方も同じなのだろうな、と、同情するしかない。 「紅茶の葉はここ、どれでもいいわ」 「ありがとう。あとは僕たちがやるから、君は戻っていていいよ」 「そう。じゃあお願いね」 これまたあっさりうなずいて、キッチンを後にした。 やはりお嬢さま育ちだけあって何かをしてもらうこと、には慣れているようだった。それが嫌味に見えないのはやはり品の良さからきているのだろう。 「まあ、あと六十年もすればああなっちゃうんだろうけど」 「残念なことだな」 「……君がそれを言うのか」 残念なのは兵部も同じではないか、と軽く睨むと、真木はほんの少しだけ表情を和らげて、薬缶を火にかけた。 上司の子供時代に遭遇し、自分たちの知る現実の姿を思い出しては少しだけ懐かしいような、残念なような、それでいてあれでいいのだと納得するような。さまざまな思いが去来するのは皆本も真木も同じだった。 けれど、あの子供たちの未来は残酷で容赦のないものなのだ。 未来を変えることはできない。そもそもここは時間軸の上ではない、はずだった。 「これからどうしようか」 何気なしに口にした皆本に、真木はじっと火を見つめたまま無言で首を振る。 なるようにしかならない。 「そのうち少佐が目を覚ますだろう」 「そうだよな」 そうであってほしい。 起きたら起きたで、きっとまたうるさいのだろうな。 |
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この状況をどう理解すればいいのか分からず、真木は深い皺を眉間に刻んだままただ途方に暮れるしかなかった。
そして写真でしか見たことのない、養い親の子供時代を目の当たりにして何だかひどく胸がざわめくのを感じる。 無垢で、無邪気な子供が数十年の歳月の間に苦しみぬいて、あんなふうに、ちょっぴりどころかかなり歪んだ人間になってしまった。そしてその歪んでしまった兵部京介というひねくれ者が真木は好きだった。好きになってしまったのだ。もしこのまま彼がただ幸せに(戦争という不幸に見舞われた者に使うべきではないだろうが)成長して大人になっていく未来(自分からみれば過去だが)を仮定しても意味はない。そこに真木との人生は交わらない。 見ず知らずのどう見ても怪しい六人組を、子供の兵部京介はなんとかしてやる、と言っている。願ってもない展開だが、やっぱり夢なら早く覚めてほしい。 「あ、不二子さんだ」 「えっ」 慌てて皆本たちが振り返ると、遠くからひらひらのスカートをなびかせながらひとりの少女が駆け寄ってくるところだった。栗色の長い髪のてっぺんにはリボンが揺れている。気の強そうな目は数十年経ても変わらない。 「京介!誰よその人たち」 「えーっと……迷子、だって」 「はあ?」 不二子は警戒のまなざしで皆本たちを睨んだ。さりげなく弟を守るように背後へ押しやって、細い体を精いっぱい伸ばして威嚇しながら腕を組む。 「ここは私有地よ。勝手に入れないわ」 「そうなんだけど、ごめん」 とりあえず謝っておこう。 「どこからきたの?まさかスパイじゃないでしょうね」 「えっ」 後ろで驚きの声を上げたのは兵部である。そこまで思い当らなかったのか、そもそもとてもスパイには見えなかったのか。女子中学生のスパイというのもなかなか珍しいだろう。 「本当に迷子なんだ。どうしようかと思って」 「不二子さん、別荘に連れていっちゃだめ?放っておけないよ」 「あなた何言ってるの?こんな怪しい人たちを勝手に家に入れるなんて」 (ですよねー) 当たり前である。 だがここでさようなら、と言われても非常に困る。 いくらここが兵部の夢の中だとしても、脱出方法が分からない以上うかつにうろうろできない。それに子供時代の兵部と不二子がどんな生活をしているのか興味があった。ここにいる兵部京介は自分たちの知る人物とは似ても似つかない。 真木はどう思っているのだろう、と皆本が後ろを振り向いて、だがすぐに何も見ないふりをして顔を戻した。彼の目に留まったのは無愛想な兵部の右腕ではなく、薫の泣きそうな顔だったからだ。彼女の背にそっと紫穂と葵が手を置いている。 彼女は今何を思うのだろう。 「実は、僕以外の人たちは全員エスパー……超能力者なんだ。君たちと同じ」 「え?」 兵部や不二子だけでなく、薫たちも唖然とした表情で固まった。一体何を言い出すのか。 「……本当に?」 疑わしげな不二子の後ろで身を乗り出しながら、兵部が最も現実的なことを尋ねる。 「どうして僕たちが超能力者だって知ってるの?」 そうだった。これではますますスパイと疑われても仕方ない。 この時代、エスパーの数は少なかった。差別もされてきただろう。だから、自分たちは決して敵ではないのだと、そう言いたかったのだがかなり先走りしすぎたらしい。 どうしようかと考えあぐねているところに、鋭い叫び声が割って入った。 「薫ちゃん!」 はっとして振り返ると、紫穂と葵に支えられるようにして薫がずるずると地面にしゃがみこむのが見えた。 「薫!」 慌てて駆け寄って腕の中に抱きとめる。 「どうした、大丈夫か?」 「うん、平気。何だか頭がぼんやりしちゃって……。変なの、夢を見ているはずなのに全然はっきりしない」 「逆じゃないの。夢の中だから、だよ」 気遣わしげに紫穂が背中を撫でる。 「大丈夫か」 賢木が地面に膝をついて薫の額に手を当てた。これが現実の世界ではないと言うのが信じられないほどに、てのひらは熱を感じるし息遣いも何もかも、リアルだ。 「不二子さん」 小さな声で兵部が不二子の袖を軽く引っ張った。 不二子は難しい顔をしてしばらく考えていたが、やがてうなずいて一歩踏み出す。 「仕方ないわね。いいわ、別荘に招待してあげる。ただし大人は誰もいないから何のもてなしもできなくてよ」 「ありがとう、助かるよ。でも大人がいないって、君たちだけで住んでるわけじゃないだろう?」 「研究所の視察で出払っていて帰るのは明日の夜よ」 「お手伝いさんがひとり残るはずだったんだけど、不二子さんが、いらないって帰しちゃったんだよね。ご飯どうするのさ」 「そのくらいなんとでもなるわ!せっかく私たちだけの自由な時間を手に入れたんですもの、監視は必要なくてよ」 昔から蕾見不二子の強引さは変わらないようだ。 その、変っていないところになぜか安心する。 「こっちよ」 さあ、と手を広げ、歩き出した不二子に兵部が続いた。 皆本は薫の手を掴んで立ち上がらせる。 「おんぶしてやろうか?」 「平気、歩ける」 あの子たちに見られるの恥ずかしいもん、と薫は顔を赤らめて、笑った。 最後尾を歩く真木がふとしゃがみこんで、置き去りにされたままの花を一本摘み上げる。 (なんという名前だったか、これは) いつだったか、自分たちがまだ子供のころ兵部に連れて行ってもらった草原に咲いていた小さな白い花。記憶に刻まれたあの日の光景と目の前の景色が二重に被さって、真木は大きく息を吐いた。 もしかしたら十年前の「お散歩」のとき、兵部はこの日のことを思い出していたのかもしれないと思うと、何だか切なくなった。 |
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