「さむい!」
朝一番に発した兵部のせりふはこれだった。
真木は一瞬言葉をつまらせ、すみません、と無意識に謝ろうとして、いやそれはおかしいと飲み込む。
部屋の空調は一定に保たれているし、ぬくぬくの布団の中でそんなことを言われても仕方ない。
それでも、一向にベッドからおりようとしない兵部に真木は不安を覚えながら歩み寄る。
「お体の具合でも悪いんですか?」
「悪くない。でも今日は一日好きに過ごさせてもらうよ」
いつもじゃないか。
という突っ込みをしたら負けだと思っている真木は、もっともらしくうなずく。
「それは結構ですが……。しかし、夕方から子供たちがパーティをするんだって張りきってますからね。忘れてないでくださいね」
「分かってるよ」
もちろん、と笑みを浮かべて、兵部は起こしていた上半身を再び横たえた。
「二度寝する」
「えっ。今日は午前中お出かけになるはずでは?」
「キャンセル」
「……午後からロビエトで大統領と仕事の話をするんでしょう?」
「葉にやらせろよ。あ、おまえはだめ」
「俺はダメ?」
「そう」
布団の中でもごもごとこもる声を聞き取りながら真木は首を傾げる。
「俺は、とくに決まった予定はないので、少佐の代わりに行くことは可能ですが」
「だめったらだめ。さっき僕が言ったこと忘れたのか?今日一日好きに過ごすからおまえはそれに付き合うんだよ」
「そんなこと言いましたっけ」
兵部が好き勝手に過ごすのはいつものことなのでかまわないが、それになぜ自分が付き合わされるのか。
見れば兵部はむっとしたような顔をのぞかせてこちらを睨んでいる。
どうしたのだろう、具合が悪いというわけではなさそうだが、と思っていると、やがて兵部はかけていた羽毛布団をがばっとめくった。
中からパジャマに包まれた細い体が現れる。
「おいで真木」
「はっ?」
「だから、二度寝するから一緒に寝ようって言ってんの」
「朝ですよ?むしろこれからおはようの時間ですよ?」
「だから何だよ」
僕の言うことが聞けないのか、と子供じみたわがままを本気で威嚇しながら聞いてくるのだからたちが悪い。
理不尽すぎる命令に、真木は動けなくなった。
「いえ、しかし……。雑用はたくさんありますし、誰かに呼ばれないとも限りませんし」
「じゃあ用があるやつはここまで来いって言えばいいだろ」
「言えませんよ!」
真木に用事があるメンバーはもれなく、朝っぱらから兵部と同衾しているあやしい姿を目撃することになるのか。
眩暈をおぼえながら真木は二、三回咳払いをして、めくれた布団をかけなおした。
「では、少佐は少し風邪気味だということで俺がつきそっているということでどうですか」
「だめ。何度も言わせるな。夕方のパーティの時間まで僕とおまえは一緒に二度寝するんだよ」
「そんなに寝れませんよ!」
無茶だ。三年寝太郎じゃあるまいし。きっちり四時間睡眠でじゅうぶんの真木が、十時間でも十二時間でも寝ていられる兵部に付き合えるはずがない。
「隣りで寝転がってるだけでいいから」
「暇じゃないですか」
「じゃあ隣りでノーパソ開いてていいよ」
「なんでそこまでしてベッドの中に入ってないといけないんですか」
それならベッドサイドのテーブルでいいではないか。
いい加減、兵部の意味不明なわがままに真木はイラッとしてきた。
特別な仕事の予定がないとは言っても真木は多忙なのだ。今だって、兵部を起こしに来たのは全員が朝食を待っているからであって、いらないならいらないという返事を、食べるなら身支度をしてさっさと起きてきてもらわないと困る。
そんな真木の苛立ちをさらに越えて兵部は不機嫌に言い放つ。
「あのな、今日は僕の誕生日なんだろ」
「ええ、ですからパーティを。ちゃんとプレゼントも用意してありますからね。何をもらってもわあうれしいよありがとうって言わないとだめですよ」
もちろん、兵部は子供たちに対して優しい笑みを崩すことはないのだが。
「分かってるよ。そうじゃなくて、おまえは僕のわがままを一日聞く義務があるってことだ。みんなにもそれを伝えれば怒ったりしないって」
「わがままなら毎日聞いてますが」
「じゃあ毎日僕の誕生日だね」
「ああもう」
がっくり肩を落として、真木はのろのろとネクタイを緩めると上着を脱いで椅子の背にかけた。
ポケットから携帯を取り出し紅葉につなげると、先に飯食ってろ、とだけ伝える。
「一緒に二度寝する気になった?」
「はいはい。分かりましたよもう、なんでも言うこと聞きますよ。聞けばいいんでしょう?」
「そうそう、最初からそう言ってればいいんだよ。じゃあおやすみ」
今度こそ寝る体勢に入った兵部をしっかり抱きしめて、真木はもう一度心の中で、ああもう、と呟いて、目を閉じるのだった。
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それはホワイトデーのプレゼントを買いにきたデパートでの出来事。
下着売り場でぼんやり佇んでいる皆本と、さてどうしようかと悩んでいる賢木の二人組をしばらく眺めていた兵部だったが、やがて飽きたようにあくびをして後ろにいる葉を振り返った。 手に抱えている袋にはなにやらスナック菓子が詰め込まれているようで、良く見るとさきほど一階のロビーで配っていた新商品の試作品のようだった。ホワイトチョコで包んだ小さなビスケットで、ホワイトデーのプレゼントにどうぞ、だそうだ。それもいいな、と考えながらもう少し見て回ろうとしていたところで奇妙な二人連れに出会ったのである。 「葉、他に見るところはあるかい?」 「んー?どうですかね、ちびたち用のお菓子はこれだけあればじゅうぶんだし、澪たちにはちょっと高価な焼き菓子の詰め合わせと細々したアクセ、えーっとあとは紅葉ねーさんか」 「紅葉なあ……。あの年頃の娘は何をもらったら嬉しいのかさっぱり分からないよ」 「なに、まだ買うのかよ」 呆れたように割って入るのは賢木だ。葉が下げているいくつもの紙袋を眺めてうわあ、と口を開けてみせる。 当たり前だ。パンドラにどれだけの人数の女性が在籍していると思っているのか。 「ていうかにーさんだってお返しのプレゼント大量に必要なんじゃねーの?締まりない下半身のせいで」 「ぷっ」 にやにやしながら言う葉の隣で、兵部がぷっと吹き出す。 「失礼なやつだなおまえら……。そんなこと言ってっとアドバイスやらねーぞ」 「なんだよアドバイスって?」 首を傾げる兵部に答える前に、賢木はなんだか遠い目をして思いを巡らせている親友の腕をひっぱった。 「皆本、もうそれはいいから」 「あ、ああ。うわあ!兵部!?」 「やあ」 軽く手をあげてにっこり微笑んで見せると、皆本は盛大に顔を引きつらせ、何か言いたげに賢木を見て、やがて疲れたように嘆息した。ここで逮捕劇を繰り広げる気はないらしい。というよりも何だか気が抜けている。 「いやこいつらもホワイトデーのプレゼント買いに来たんだってよ。そんであれだろ、紅葉ってあの、背の高いサングラスかけたねーちゃんだろ」 「そうだよ」 あの年頃の女の子は何が欲しいんだろう?と最も経験豊富だろう賢木を見上げると、彼は腕を組んで真面目な顔をした。 「趣味が分からんからな、普通は香水とか、ピアスとか、ネックレスとか」 「さっきアドバイスくれるって言ってなかった?なんだよその適当な返事は」 かすかに頬をふくらませて上目遣いで睨む。 「そもそもそういうの送るのって付き合ってる彼氏とかじゃねーの?身内にそういうのプレゼントするもんなのか?」 よく分からん、と葉は首を振った。長年共にいる姉のような存在だが、今まで彼女にそういう飾り物やらを贈ったことはない。たまにすれ違うといい匂いがするから香水を全くつけないというわけでもないだろうが、詳しくないので何を買えばいいのか分からない。それは兵部も同じだろう。まさか石鹸水をあげるわけにもいかないし。 「だからさ」 ひらひらと手を振りながら、賢木は後ろのフロアを振り向いて指をさす。 「ああいうのは?」 「……賢木」 再び、疲れたような皆本の重いためいき。 兵部と葉は同時に賢木が指示した方を見やって、顔を見合わせた。 「下着?」 「そうそう。あのねーちゃん割といいスタイルしてんじゃん。ブラとショーツとガーターの三点セットとかどうよ」 あれとかいいかも、とためらいもなく女性下着コーナーへと歩み寄って、マネキンの前でうなずく。赤い布にレースが縁取られたブラをまじまじと見て、値段を確認しひょえええ、などと驚いて笑った。 「たっけー。なんで女性ものの下着ってこうも高いんだろうなあ」 「知るかよ。ていうかそれは無理。却下」 「なんで」 これもいいぜ、ともう一対のマネキンを無理やり引き寄せて、豹柄の派手なブラをぴんと弾いた。非常に悪目立ちしている。売り場を見ていた店員や女性客らがこちらを見てひと睨みしていく。無理もないだろう、なぜならスーツを着た若いサラリーマンと見るからに軽薄そうな男とあまり興味なさそうな青年と学生服の集団が堂々と女性下着売り場で品定めしているのだ。明らかに不審者である。 「おい、もう行こう」 「なんだよ真っ先にここへ来たの皆本じゃん」 「だから違うって!通りかかっただけ!!」 急に恥ずかしくなったのか、皆本は小声で叫ぶという器用なことをしながら賢木の肩をこづいた。 「で、おまえらはどうすんの。俺はあのねーちゃんの趣味までは分からんし」 「そうじゃなくて。趣味の前にサイズが分からない」 「え?」 「なにが「え?」だよ。普通知らないだろ。それともこういうのって適当でいいわけ?」 「適当でいいわけないだろ……」 ぼそりと兵部が呟く。 「なんだサイズ知らんのか」 「知るわけないだろ!!あーもういい。君のアドバイスを期待する方が馬鹿だった」 やっぱりもう一度地下に降りて高級洋菓子を買おう、ときびすを返した兵部に、葉は走り寄りながら彼の腕を掴む。 「少佐が一緒に風呂入ろうって言えばいいんじゃね?」 「あ、なるほど」 たぶんおそらく、紅葉はにっこり笑ってOKするだろう。小さい頃から面倒を見てくれた外見美少年の中身おじいちゃんには隠すものなどなにもないのである。 うらやましい、という呟きが後ろから聞こえた気がしたが、ふたりは聞こえなかったふりをして、今夜は久々に四人でお風呂に入ろうか、とうなずきあう。 「いや、一緒に風呂に入らなくても、サイズ教えてって言った方が早いんじゃ」 皆本の呟きは甲高い声で店員を呼ぶ女性客の声に吹き飛ばされ、ざわめきとともにかき消されていったのだった。 |
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「少佐、こちらですか」
リビングのドアを開けて真木が入ってくるのを、兵部はうるさそうに手をふって答えた。目は大画面の液晶テレビをじっと凝視していて、邪魔をするなと無言の圧力を視線を合わせることなくかけてくる。 仕方なく真木は腕に抱えたノートパソコンをテーブルに置き、手に持っていたファイルも置いて部屋の隅の椅子に腰かけた。 見れば兵部のほかに紅葉と澪、カズラも食い入るようにテレビ画面に夢中になっていて、真木が入ってきたことすら気づいていないようだ。 日曜日の真昼間に何を見ているのだろうとつられてテレビを見れば途端に始まるあやしい男女の濡れ場が始まり慌てて立ち上がる。 「ちょ、何見てるんですか!こんなの子供の見るものじゃありませんよ!」 「うるさい!」 「黙っててよ!!」 ぴしゃりと兵部と紅葉に怒鳴られ、真木はわなわなと震えながら唇をかんだ。子供の情操教育に悪い、とまっとうな意見を言ったつもりだったのになぜ怒られなければならないのだろうか。 『奥さま……!』 『ああ、だめよ、書斎には夫が』 『大丈夫です。旦那様はスケジュールではあと一時間は電話会議から逃げられませんから』 『さすが有能な秘書だこと。……ふふっ。あら、あっちの方も有能なのね』 「なーにが有能なんだァァァァァァァ!!」 「うるさい!」 思わず頭を抱えて怒鳴ってしまった真木を、今度こそ兵部がぶち切れてひょいと指をふった。と同時に真木の視界がぶれて、一瞬のうちに外の廊下へテレポートで放り出されたことに気づく。 「す、すみません」 おずおずと謝罪しながらうつむいて再びリビングのドアを開く。 まだ濡れ場が続いていたらどうしようと顔を赤らめながらそっとテレビをチラ見すると、どうやら艶っぽいシーンは終わったらしい。ほっとしながら物音をたてないようにさきほどの椅子に腰をおろす。また邪魔をすれば今度は海の中へ放り込まれるに違いない。 ドラマの中では、今度は視点が変わり冴えない男がくたびれた様子でネクタイを緩めて溜息をつくところだった。ストーリーは全く分からないが何となく真木はこの男に同情したくなる。 『ふう……』 『あら、おかえりなさいあなた』 『ああただいま。そうだ、明日社長のご自宅へ夕食に招かれたんだ。君も一緒に』 『あら嬉しいわ……』 にやり。 妻らしい、恐ろしく美人だがそれを上回る意地の悪い笑みを浮かべた女優がぺろりと赤い唇を舐める。さきほど若い男といちゃついていた女だ。 (……もしかしてこれ、毎日やっている昼ドラの再放送なのか?) 放り出してあった新聞を手にとって番組欄を見てみると、思った通り平日の昼にやっている主婦向けのドラマを一週間分、二時間半ぶっ続けてリピート放送しているらしい。なるほど昼間働く女性層のためのありがたい配慮なのだろう。 とは言え、実は真木は兵部も紅葉も、毎日これを欠かさず見ていることを知っている。どんなに重要な仕事が入っても必ず決まった時間にはここへ戻ってしまうからだ。おかげでふたりが動く必要のある仕事は平日の午後一時から一時半までの間に入れられないことになっている。たとえ無理に言い聞かせたところでふたりが従うはずがない。無駄である。だから、無駄な努力は早々に放棄しちゃった真木なのであった。 そうこうしているうちにドラマはそろそろ終わりらしい。まるで通夜を実況しているかのような重々しい女性のナレーションがやたらバイオリンが耳につくBGMに乗って流れてくる。サスペンスドラマかと勘違いするほど、『果たして!』だの、『そのとき!』だのやたら煽るものだから、真木はそろそろ真犯人の登場なのだろうかと考えたほどである。 「あーおもしろかった」 「えーもう終わり?」 ううん、と背筋を伸ばしながら澪とカズラが言う。 「あれ絶対あの旦那さん気づいてるよね」 「分かんないわよぉ」 澪がぴっと指をたてるのに、紅葉はサングラスをかけなおしながらチチチと舌をうった。 「男は鈍感ですもの。頭のいい女が何人と浮気してたって分かるものですか」 「えええー。でもでも、社長は部下の妻だって分かってて手を出してるんでしょ。フェアじゃない!」 「元愛人の体が忘れられなかったのね」 「こらぁぁぁぁぁ!!」 しれっとすごいことを言ってのけたカズラに、今度こそ真木はレッドカードを出した。 「少佐も紅葉も何ですか、こんなの中学生に見せるものじゃないですよ!」 「子供扱いしないでよ真木さん」 ぷう、と澪とカズラが頬を膨らませて抗議する。 眉間に深いしわを刻む真木を振り返って、兵部はにやにやしながら、言った。 「真木は純情だなあ」 「ベッドシーンで顔真っ赤にしちゃってかーわいい」 ばっちり気取られていたらしい。 ぶるぶる体を震わせながら顔を赤らめた真木を見ながら、兵部と紅葉はくくく、といやらしい笑みを浮かべて、今日一日のからかいのネタができたことを喜んだ。。 |
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船のステップを踏み歩きながらサロンへ戻ってくると、ちょうど兵部がこちらへ歩いてくるところだった。ぎょっとしたのは何やら禍々しいオーラを放っていたからで、思わず真木は足を止める。少佐、と声をかけようとして口を開いたが、兵部はすれ違いざまにちらりとこちらを見て、というよりも軽く睨んでそのまま立ち止まりもせずに上へと上って行ってしまった。
「ちょ、少佐!?」 なんだ、一体何を怒っているのだろう。 きゅうううん、と胃が縮んだように痛むのをさすりながら慌てて追いかける。いつもの学生服姿の兵部は振り返らずすたすたとデッキを歩いて行った。ひどく機嫌が悪いようだ。 対処法は二択ある。というより、二択しかない、と言った方が正しい。ひとつはこのまま機嫌が直るのを待って放置する。もうひとつは怒鳴られようとサイコキネシスで吹っ飛ばされようと、根気よく気分を害した原因を問いただし排除しさらに自分が悪くなくてもひたすら低姿勢で言う事を聞くという方法である。 これが、相手が兵部でなければ迷わず前者を選ぶ。当たり前だ。メンバーのうち何割かの人間には不本意ながら「真木司郎はマゾではないか」などと噂されているが(どうせ葉の仕業だ)、もちろん真木にそんな性癖はない。いや、たぶんない。だから、仮に紅葉や葉やマッスルや年下の仲間たちがイライラしていようと、それとなく様子を見ながらも無理に話しかけるようなことはしない。だが相手が兵部となると話は変わってくる。話しかけるなと言うオーラを出しつつも、こういうときの彼は、つまり構え、と無言で命令しているに過ぎない。構ったところで怒られるのだが、放置しようが構おうが怒られるのなら彼が望むように動くほかないだろう。紅葉あたりに言わせればこの辺りが「真木ドМ説」の原因なのだが、彼は気付いていない。 ともかく、真木は背中で怒っていることを告げている器用な育ての親に声をかけざるを得なかった。 「少佐、どうかされましたか」 おろおろしながらとりあえず自分に何か非があったかを考えてみた。朝はいつも通りちゃんと食卓でいつもの顔ぶれがそろっていたし、兵部のためにカリカリのトーストとハムエッグ、温野菜とスープ、紅茶をそろえた。文句を言わずに口にしていたのでこれはセーフ。その後読書をしたいと図書館にこもり、お茶の時間に呼びに行って焼きたてのパイを切り分け、子供たちと一緒に食べた。そこまではいい。彼もご機嫌だったはずだ。あれからまだ十五分もたっていない。先に食堂を出て洗濯物を畳む作業を自分がしている間に何かあったのだろうか。 「少佐。あの、本当はパイがお気に召さなかったとか…?」 「はあ?」 やっと振り向いてくれた。返ってきたせりふが「はあ?」である。しかも語尾をたっぷり上げた、あからさまに「なに言ってんのおまえバッカじゃないのこのクズ」とでも言いたそうな目をしている。真木は背中が寒くなるのを感じてぶるっと震えた。雷が落ちる、と身をすくめて怒声を覚悟したが、いつまでたっても降ってこない。 (あれ?) そろそろと目を開けるとすでにそこに兵部の姿はなかった。慌てて周囲を見渡し、船の最先端でぼんやり海を眺めている影をとらえて走り寄る。 「少佐……」 兵部の、どこか遠いものを見る目つきにこんどは先ほどとは違う胃のうずきをおぼえた。まるで別の世界を見ているような、心ここにあらずといった雰囲気にどきりとする。目の前にいるはずなのにここにいない、そんな錯覚。 真木は、どんなやつあたりを受けようが構うものか、と、その場にひざまずいた。 「少佐!」 土下座ともとれる格好で頭を垂れて、叫ぶ。 「お願いです、俺に当たってくださってかまいません、ですからどうか……どうかおひとりで悩んだり、苦しんだりしないでください!あなたはもうひとりではないのですから」 そう、自分はもう子供ではないのだ。少しでも彼の負担や苦しみを受け止めることができればと、ただそれだけを願って必死に能力を磨きあげてきたのだ。 「お願いします」 その悲痛ともとれる声音に、兵部はやっと真木の存在に気付いたかのような顔で振り向いた。 「真木」 「はい」 さあ、何を言われるか。頭上から鋭く重い攻撃が降ってきたとしても避けない自信はあった。 「……じゃあ言うけど」 「はい、何なりと」 やはり何かあるのだ。ごくりと唾を飲み込み、必死の面持ちで顔を上げる。白い顔は無表情のまま、どこかうつろな目でこちらをじっと見つめていた。 「すごく痛くて」 「えっ……?痛いって、もしかして……」 冷や汗がじわりとこみかみを伝った。まさか、心臓が?苦しいのを堪えているあまり怒っているように見えたのだろうか。そうだとすればとんだ失態だ。気付かない自分に腹が立つ。 慌てたように立ち上がり、心配そうに背中に手をまわす部下を見上げて、兵部は今度ははっきりと唇を尖らせ拗ねた子供のような顔になった。 「実は朝から右下の奥歯が痛いんだ。おやつを食べるまではちょっとずきずきするくらいだったのにパイを食べたら猛烈に痛くなった」 「……それは」 パイのせいではない。 「それは、虫歯です!!」 「だよねー」 うんうんそうだよね、と二度三度首を縦に振って右の頬を掌で覆う兵部に、真木は一気に脱力してへなへなと床に座り込んでしまった。 「怒っていたわけではないんですね」 「怒ってるさ!だって歯が痛いんだぜ?理不尽だ」 理不尽なのはアンタだ!! などと、もちろん真木は言わない。ただ、先ほどの兵部がやったように遠い目で海を眺めながら、どうせどんなに腕のいい歯医者へ連れて行ったところでまた機嫌を悪くするのだろうな、と途方に暮れたのだった。 |
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おまえたちは戻れ、と、当然のように言われたときのあの胸の痛みは何だろう。
澪とカズラが不満そうに頬を膨らませながらも、すぐにけろりとしてサロンを出て行こうとするのを、カガリはひどく苛立った顔で見送った。 パティも少し遅れて彼女たちについていく。 彼女だけはほっとしたような表情をしていて、そういえばここ数日部屋にこもりっぱなしだったなと思い返す。何をしているのか詳しくは知らないが、パティにはパティなりに忙しくしているらしい。 カガリは、というと、それなりに学校へ行ったり小さな子供たちの面倒を見たりと、暇ではないが仕事をしているというわけでもない。 それが不満でたまらない。 ぐずぐずとなかなか部屋を出て行こうとしないカガリに、真木が眉をひそめた。 「どうした?何かあるのか」 「……いえ、そういうわけでは」 何か話題になるような、ちょっとした報告ごとはなかっただろうか。 少しでもこの場所にとどまろうとして脳をフル回転させるが、日常をただ学生らしく(犯罪者集団であるという世間的な目はともかくとして)過ごしている彼が組織の幹部に報告すべき重要なことなどあるわけがない。 「カガリ?」 怪訝そうに重ねて真木が問いかける。 早く出ていけ、と言外に告げられている気がして、カガリは肩を落とした。 自分が出ていけばあとはこのサロンに残るのは真木と兵部のふたりになる。 日中、チルドレンたちの監視を任されたカガリたちの他愛のない報告を聞いた後は、おそらく仕事の話にうつるのだろう。 自分には関係のない話だ。 悔しいのだろうか。まるで、役に立たない子供のように扱われることに。 「ふふ」 小さく笑う声が聞こえてはっと顔をあげた。 優しい色をたたえる闇色の瞳と視線がぶつかって、慌てたようにカガリが帽子に手をやる。 ぺこりと頭を下げて出て行こうときびすを返したカガリに、兵部が声をかけた。 「かまわない。やることがないならここにいなよ」 「え?」 「少佐?」 兵部はソファの上にゆったりと座り、ひじ掛けにもたれるように体を斜めにしながらじっとこちらを見つめている。 吸い込まれそうな目に、だがそらせずにカガリはじんわりと背中が熱くなるのを感じた。 畏怖と敬愛と、うまく表現できないもやもやとした感情がそこにはある。 カガリにとって兵部は神様のような存在だ。決して逆らうことはできないし、逆らおうとも思わない。彼の存在は絶対だしそうであってほしいと思う。 何の疑問もなくついていける人がいるのはなんと幸せなことだろうか。 彼の片腕として働く真木に対しても同じような思いを抱いているが、真木に対しては敬愛というよりも将来の自分を見ているようで、それが願望でもある。 「カガリもいつまでも女の子たちとばかり一緒にいるのは退屈だろう?」 「……ええ、まあ」 確かに、普段はカズラと行動をともにすることが多いが、その時間は成長するにつれて少しずつ短くなってきている。カズラは澪やパティと年頃の女子トークに花を咲かせるし、そうなると自分の存在は邪魔にしかならない。自然と葉や他の少年青年メンバーといるか、ひとりで黙々と勉強をこなすだけだ。 さみしいとは思わないが、まだ少しだけ違和感がある。 幼馴染みの男女はいつまでも一緒にはいられない。 「真木、例の仕事の件を」 「はい、しかし」 ちらりと真木がカガリを見る。 「いいよ。カガリにもわかるように説明してあげて。もしかしたら協力してもらうことになるかもしれない」 「えっ」 間の抜けた声をあげて兵部を見る。 真木も、驚いたようにファイリングされた書類から目を上げた。 「そう驚くことじゃないだろう?そろそろカガリたちにもきちんと仕事を任せる時期だろうし、真木だってひとりで抱えきれないくらいの仕事があるだろう?手が足りないっていつも言ってるじゃないか」 「そうですが、しかしカガリはまだ子供ですよ」 「子供じゃありません!」 思わず声を荒げてしまった。 かっと顔を赤らめてうつむく。 「そうだよね。今のは真木が悪い」 「……すみません」 「じゃ、ないだろ」 からかうような兵部の声音に、真木はカガリの方を向いて、改めて言った。 「すまん」 「い、いえ!そんな」 「カガリだってもう年頃の男の子だもんね。そうだなあ、今回の仕事はともかく、その次にやるつもりの要人警護の仕事はカガリにも手伝ってもらおうかな。メインに幹部連中、フォローにカガリ。それで行く」 な、真木、と同意を求めるような、それでいておそらく兵部の胸の内ではもう決定事項なのだろうことを告げる。 「わかりました。ではメンバーに組み入れます。いいな、カガリ」 「は、はい!」 ふたりから見つめられて、頬を紅潮させながら大げさなほどにうなずいた。 「頼りにしてるよ」 その言葉がたとえ社交辞令的なものであろうと。 嬉しくて嬉しくて、カガリは勢いよく頭を下げて退室のあいさつをすると、船の中を走りはじめた。 カズラに報告しよう。そうだ、きっとうらやましがるだろう。 澪たちではない、幹部のフォローは自分だけに任されたのだ! まずまっさきにカズラに言わないと、という思考自体が子供っぽい優越感だと気づかないうちは、まだまだ子供だな、と遠ざかっていく足音を聞きながら、兵部は小さく笑った。 |
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