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かの日の<匂い>を思い出すことがある。
涼しくさわやかな秋の風。ひだまり。不穏な世情など外界のことのように思わせるような美しくおだやかな日々。口うるさいけれど何かと構ってくれる血のつながらない姉。眼鏡の奥の優しい目。大きく暖かなてのひら。心配そうに名前を呼ぶ低い声。森の奥の緑にそびえるコンクリートの研究所。立ち入り禁止のロープ。失敗した研究体。小さな体。駆けてくる軽い足音。揺れる白。 (ちりん) 鈴の音が聞こえた。暗闇で光る緑と金色。 (ちりん) 幼い子供は嬉しそうに手をさしのべる。 「おいで」 ずっと一緒にいた。たった三日間だけの親友だった。 あくる朝、庭を見渡すと、白い小さな塊がぐったりと倒れていた。 血の匂い。無残な噛み跡。赤い水たまり。 親友は生気を失った濁った眼で、わずかに顔を持ち上げると、子供に向かって最後の別れのあいさつをしたのだった。 「にゃあ」 +++++++++++++++++++++++++++++++ 真っ暗な中で懐中電灯をそっと廊下の端にあてた。 まさか、と思いながら、兵部は確信していた。 そんなものは信じない、と言いながら頭のどこかで考える。 そんなことも、あるだろうと。 「おまえ……」 名前はなかった。ただ一緒にいただけだ。数十年前の懐かしい記憶。 ふいにがたんと何かが開いて、奥から床をゆっくりと踏みしめる音が近づいてきた。 唸り声と獣の匂いが充満する。とっさに照らしてその正体を確認すると、兵部は毛布を放り投げながら緑の光へと走り寄ろうとした。しかし緑は兵部よりも早く動いた。彼と獣の間を隔てるようにして白くぼんやりと光る小さな塊が飛び降りる。ちりん、と鈴の音がした。一瞬その白い塊が振り返った。見覚えのある顔だ。利発そうでいて、どこかさみしげな色をしている。 「どうして」 ウウウウウ、と獣が喉を鳴らした。良い獲物が飛び込んできたと舌なめずりをして構える。 「だめだ!」 叫ぼうとしたが、喉の奥に何かがつかえたように声が出ない。ESPで獣を撃退しようと考えるも、薬のせいでぼんやりとした頭はなかなか集中してくれなかった。強い眠気を振り払うようにぎゅっとまぶたと閉じてもう一度開けると、自分が照らした電灯の灯りのせいでチカチカと目の前に幾何学模様が浮かぶ。 獣は動かない。ふんふんと鼻を鳴らして、兵部と白い塊とを交互に見る。どちらを先に狙うか迷っているようだった。自分の方へ向ってくればいいのに、と兵部は思った。もしあの猫があのときの猫だったとするなら、なぜ今頃になって姿を現したのか。どういう理由にせよ、二度と同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。あのとき深夜に吠える野良犬を撃退していれば、彼女はあんなことにはならなかったのだ。 「兵部!」 大声を張り上げながら男が走ってきた。ぽたぽたと廊下を濡らしながら皆本が懐中電灯を頼りにやってくる。なんだいそのみっともない格好は、と皮肉を言おうとして、けれどやはりまともに声が出ずに兵部はぼんやりと彼が手に持つ電灯の灯りを見つめる。獣はまたしても現れた闖入者にわずかに後退したが、敵意のこもったまなざしでこちらを振り返って牽制するように唸った。 「大丈夫か?」 言われて、兵部は自分が廊下に座り込んでいたことに初めて気づく。 皆本は彼のとなりにひざをついて同じようにしゃがみこむと、兵部の肩に濡れた手を置いた。じんわりと水が染み込んでいくのを感じて小さく震えると皆本は小さな声でごめん、と言って手をどけた。何がごめん、なのか兵部には分からなかった。 「あの猫、は?」 当然の疑問だろう。暗闇の中で発光しているのは瞳だけではないのだから。 浮かび上がるように淡い白色を放つ毛並みは、それがこの世のものではないことを象徴していた。それでも恐ろしく感じないのは彼女に対峙する獣が悪意と殺気に満ち満ちているからだろう。腐った水のような臭気が大きな獣から放たれていて、皆本は息がつまりそうだった。 「兵部?」 説明を求めるように顔をのぞきこんで、だがぼんやりと目の前の光景を眺めている兵部がただならぬ様子なのに気付き眉をひそめる。 「大丈夫か?」 同じ質問を繰り返したが、隣りに座り込んだままの銀髪の少年からいらえはなかった。 PR |
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