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「待て!」
慌てて立ち上がり廊下へ出ると、兵部は壁に手をつきながら玄関の方へと歩いていくところだった。早く、という焦りに足が追いつかないのか、何度かよろめきながらも踏ん張っている。賢木は深いため息をつくと、大股で彼に歩み寄り腕を掴んだ。 「どこへ行くんだ」 「行かないと。もう何十年もあそこで待っていたんだ」 「何を言ってるんだ?」 ぞっとして、意味不明なことを口走る兵部の顔をのぞきこむ。ひょっとして何かおかしなものにでも憑かれているのではあるまいな、と嫌な汗が額に浮かんだ。 「なあ、どこへ行くんだ。話してくれよ」 こういうのは得意じゃない。 ああそうだ、皆本に任せよう。こういうのは自分の柄ではない。病人はおとなしくしておけ、と叱りたい。皆本はどこへ行った?さきほど猫がどうとか言っていたような気がするが、気が動転していたのかろくに覚えていなかった。だが屋敷の中に獣が紛れ込んでいるのなら早急に手を打たねばならないだろう。 賢木の手を振り払おうとしてうまく力が入らず空振りすると、兵部は手を掴まれたまま再び壁に手をついて歩き出した。ぺたぺたと廊下を歩く足が寒そうで、スリッパを持ってきてやれば良かった、と賢木は少し後悔する。見ているこちらが寒い。電気に照らされた細いくるぶしは病的に白く骨ばっている。そうか、子供の体なのだ、と改めて思った。 「皆本!」 叫ぶと、遠くからこっちだ、と声がする。 ほっとして、賢木は兵部の腕を掴んだまま皆本の声がした方へとゆっくり歩いて行った。切羽詰まった様子は感じられない。すでに侵入してきた獣との決着はついてしまったのだろうか。 皆本は、ちょうど兵部や自分たちがとっている部屋の反対側、最も距離のある客室の前の廊下に佇んでいた。こちらに背を向けて床を見つめていたが、やがてこちらの足音に気付き振り返る。蒼白な顔をした兵部を見てやや目を見開くと、何か言いたげに口を開いて、小さく首を振った。 「大丈夫か?」 「……ああ。でも、あまり見ない方がいい」 それは賢木に向けて言ったのか、兵部へ向けた言葉なのか。きっと後者だろう、と判断して賢木は兵部の腕をはなして皆本へと歩み寄る。彼の肩越しに見たのは、床に倒れた大きな黒い獣だった。長い舌を出して絶命している。毛に覆われた体は鋭い爪で引っ掻かれ様な傷が醜く散らばり、床は血に汚れていた。腐臭と錆びた鉄の匂いに気分が悪くなる。 「これ、おまえが?」 「いや、違う」 猫が、と皆本が呟いた。 「さっきから何言ってるんだおまえら」 理解不能、という表情で賢木は皆本をちらりと睨んで振り返る。後ろでは兵部が茫然と立っている。彼はぺたりと床にはりついた足を重そうに上げて一歩進み出ると、賢木が制止しようとするのを避けて、倒れている獣の死骸を見つめた。 「兵部、さっきの猫、知っているんだろう?」 崩れ落ちそうになっている兵部の腕を掴んで皆本は確かめるように言った。 「僕が駆けつけた時にはもうこのありさまだった。さっき見た白い猫は消えていた。けれど、これをやったのはあの猫なんだろう?」 兵部は答えない。ただ、何かに耐えるような、ひどく悲しい目で黒い死骸を観察していた。賢木はわけのわからない苛立ちを抑え込みながら無言でふたりを見守る。 ちりん、と鈴の音が聞こえた気がしたが、幻聴なのだろう。 小さくこんもりと盛り上がった土の前から少年は動こうとしなかった。きっと寂しいだろうと思ったからだ。あと一時間後には自分たちはここを離れる。幼い彼には詳しいことは分からないけれど、緊迫した大人たちの表情やラジオから流れる不穏な言葉の羅列は世情が大きく動いていることを現していた。日々の訓練は本格さを増して甘えは許されない。おそらく、ここ数年のうちに世界は大きな変化を見せるのだろう、と彼は子供心に確信していた。だから、きっと次にここへ来ることになるのはもうずっとずっと先のことになるだろう。 土を踏みしめる音がして、男がそっと彼の背中をたたいた。 「そろそろ準備をしないと」 「……はい」 でも、とうなだれたまま首を振る。 友達が。 ひとりぼっちでここに眠っているのだ。 「京介くん」 諭すような、優しい声が頭上から降ってくる。兵部は必死で笑顔を作ろうとして、うまくいかずにくしゃりと顔が歪んだ。散々泣いた後だ。これ以上迷惑をかけてはいけない。 だが、男は少年を急かすことはせずに彼の隣りに立つと、木の根元に作られた小さな墓の前にしゃがみこんだ。 「毎年墓参りにくるのは難しいかもしれないけれど、またここへこよう。五年後、いや十年後に一緒に」 「一緒に?」 不思議そうに尋ねる少年を下から仰ぎ見て、男は微笑んだ。 「そう、一緒に。この子が寂しくないように。君の成長した姿を喜んでくれるように。忘れないでくれ京介くん。きっと一緒にここへくるんだ」 忘れないで。 彼女はきっといつも君を見守ってくれるだろう。 一緒にここへくるんだ。忘れないで。 その約束の言葉は結局果されることはなく、心の奥深くで眠りについたまま数十年目覚めることはなかったのだった。 PR |
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