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偶然廊下で出会った蕾見不二子(珍しく起きていたらしい)に、福引が当たったのだと伝えたのは薫だった。にこりと笑った不二子の顔が一瞬曇ったように感じたのは、気のせいだっただろうか。 しなびた温泉旅館で、今は閉鎖されているが内装は管理人によって整えられているし要望があれば素泊まり宿として開放しているらしい。 それじゃあご馳走は?と不満げに頬を膨らませるチルドレンたちだったが、材料を調達して、広い調理室を利用しみんなで食事を作ろう、という皆本の提案にのってくれたのは助かった。五十人ばかりが泊まれる客室を有する旅館を、たった四人で貸切状態にできるのだ。これほど贅沢な話はないだろう。 「温泉は毎日掃除してあるから綺麗だし、戦前から続いている由緒正しいお屋敷を改造したものだから、何かお宝が見つかるかもしれないわね」 そう言って、管理官は手を振りながら子供たちを見送ったのだった。 「・・・・で、何で俺まで」 すっかりふてくされた顔で文句を言いながらハンドルを切る賢木に、皆本は申し訳なさそうに眉尻を下げた。 「ごめん。でも自分も有給使ってついて行くって最初に言い出したのおまえだろ」 「そうだけどさ!温泉っていうから綺麗な女将さんがもてなしてくれる高級旅館想像してたのにー。まさか誰もいない素泊まり宿だなんて聞いてないぞ」 「言ったよ!言った。おまえが最後まで聞かないでそのまま有給申請出しちゃったんじゃないか」 「そうだっけ?」 全く身に覚えがないや、と首を傾げる親友に、つい溜息がこぼれる。まったく、自分に都合のいいところしか覚えていない。 「ねえねえ、ばあちゃん今からいく宿のこと知ってるみたいだったよね」 「確かに。戦前から続いてる屋敷って言ってたし、もしかしたら管理官も行ったことあるのかもしれないな」 「あーあ、でも結局自炊するのよね」 頬に手をあててちょっぴり拗ねた顔の紫穂に、思わず男同士目を見合せて苦笑する。 「しけた福引やなー」 「こらこら。福引券じたい、マンションの管理人さんがご厚意でくれたものなんだから」 まさか一等が当たるとは思わなかったけれどな、と呟いて、窓から延々と続く山道を見つめた。 ちゃぷ、と小さな水音が何度か響いた。ぱしゃぱしゃと繰り返して、ふいにとまったかと思うとずるずると布の塊が動いて、その上にぱたりと銀色の髪が乗っかる。 「あーしんどい」 洩れる呟きはやや掠れ、だがそのかわりにだるそうな、少し勘違いすれば艶やかな甘さを含んでいる。囲炉裏をぐるりと囲んだロビーはおそらく何十年と代り映えしていないのだろう、時代を物語っている。そのロビーの隅に、磨かれた檜の溝のようなものが端から端まで伸びており、九割方には蓋がされていた。そのいちばん中央にあたる場所に彼は上半身を倒し、足を蓋がよけられた溝の中に浸している。中に流れているのは建物の外からパイプを通して伸びている、源泉から川へと流れる温泉だった。 かすかに埃っぽいクッションに頬をこすりつけながらうっとうしい前髪をかき上げる。指先に触れる傷跡は鏡を見なくてもくっきりと形を再現できるほどなじんだもので、けれど決して一生付き合いたいものではない。 硬い靴音が近づいてくる。 「少佐」 ふたりしかいないというのに何故か声をひそめて、大柄な男は手にしていた上着を敬愛する上司であり、育ての親でもある兵部の体にそっとかけた。 「部屋に戻りませんか」 「やだ」 「・・・ここは冷えますよ」 「あったかいよ。足は」 「ですが」 肩が冷えるでしょう、とたしなめて、彼の背中に手を当てるとゆっくりと抱き起した。手のひらで支えるその体は見た目以上に薄い気がする。肌の色は病的なほどに白いくせに普段以上に熱を持っていた。 「遊びに来たんじゃないんですよ」 「え、違うの?」 わざとらしく、光のない目を細めてからかうそぶりで言えば、忠実な部下は癖のようにまたため息をついた。 「療養に来たんでしょう。悪化させてどうするんですか」 そう言って、兵部が何か言いだす前にひざ裏に手を差し込むと抱き上げた。彼の足元にはスリッパも靴もない。 「静かだけど退屈すぎ」 「ここにしようと言ったのは少佐ですよ」 「そうだっけ」 都合の悪いことは全部知らないふりをする兵部である。 「のんびりと静かなところで過ごしたいとおっしゃったのは少佐じゃないですか。……ここがあの蕾見不二子の所有物だったのには少々、どうかと思いますが」 「いいじゃん。親戚ですって言ったらあっさり貸してくれたし、あの管理人」 僕のことは知らないみたいだね、と言う兵部に、それはそうだろう、と真木はうなずく。たとえ同じ家系の者が代々管理人をつとめているとしても、世代交代したらしいあの若い夫婦が兵部のことを知っているはずがない。 「そういえば君、今日は夕方から仕事だろ」 ここにする、と決めた客間まで長い廊下を歩きながら、真木は今抱えている最も大きな心配事を兵部みずから口にしたことに微かな疲れを感じた。 「はい。葉が、かわりにここへ来ますので」 「別にいいんだけどなあ。ひとりは慣れてるし」 「……そんなことを、俺が認めるとお思いですか」 「お思いじゃありません」 真木の口調がおもしろかったのか、ぷっと笑いながらからかう。 兵部にしても、本当にひとりがいいと思っているわけではない。 なにしろあまり自由に体が利かない現状でひとりきりで過ごすのは多少骨が折れる。面倒をみてくれる家族がいるのは嬉しい。 ただ交代要員が葉だというのが少しばかり不安ではあるが。 「あ、ちょっと待った」 「はい?」 ふいに上がった声にぴたりと足を止めた。 「真木、引き返してくれ」 「え、どうしてですか」 「さっきのロビー。受け付けの帳簿が見たい」 「帳簿、ですか」 そんなものあっただろうか。 「うん。もしかしたら前回僕らが来たときのが残っているかもしれない」 「あるでしょうか?何十年も前なのでしょう?」 「確かめてみたい。ほら、早く」 髪を引っ張られて、そう言うなら仕方ないと、真木は兵部を抱え直して今来た道を戻ることにした。 PR |
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体育の授業は出ない、と言っていた兵部はてっきり保健室にでもいるのだろうと思っていたのだったが。
「おまえ何やってんの」 準備運動と称して教師の言うとおり適当にコンビを組みキャッチボールをしていた真島は、相手がコントロールをはずしたボールを追いかけてグラウンドの隅へ走った。 その金網の前。 しゃがみこんでぶちぶち雑草をちぎっている、銀髪の変なやつ。 自分と同じ上下のジャージを着た姿になんだか違和感がある。 (顔がいいやつがダサい格好するとさらにダサさが際立つよな) イケメンは何を着ても許されるが、かわいそうなのは着られる服の方だろう。 だが真島が目を離せなくなった原因は、単に彼が珍しい格好をしているからではなかった。 中途半端に閉められた上着からのぞく白い体操着と、くっきりと浮き出た鎖骨のコントラストがやけになまめかしくて変な気分になりそうだ。 日焼けしていない白い肌はつるりとなめらかそうで、まるでミルク色の入浴剤をかぶったようだと思った。 (て何考えてるんだ俺) 同じ男のクラスメートに抱く印象ではないだろう。 ここしばらくの雨がようやく上がり、じりじりと太陽が地面を焼いていく。 ああ、きっとこの暑さのせいだ。 じっと彼を見つめていると、ようやく兵部が顔を上げて、眩しそうに目を細めた。 「君こそ何やってんの」 遠くで、コンビを組んだクラスメートが大きな声を上げて手を振っている。 真島は転がっているボールをつかんで思い切り投げた。 汚れたボールが飛んでいく。 一瞬太陽の光に紛れて姿が見えなくなる。 一呼吸のうちにボールは相手の手の中に吸い込まれていった。 「行かなくていいのかい?」 兵部はしゃがみこんだまま、不思議そうに尋ねた。 「ていうか、こんなところで何やってんだよ。見学するならもっと近くにいればいいのに」 これでは何だかいじめられているようで情けない、と肩をすくめて手を伸ばす。 「ほら」 「なに?」 「手」 きょとんとする兵部の目の前に突き出してぶっきらぼうに手を振ると、ようやく兵部は合点が言ったようにうなずいて手をとり、立ち上がった。 ひんやりと冷たい。まるで血が通っていない人形のようでぞっとする。 「ここが日陰になっていたから」 「あっちにも木陰があるだろ。それか保健室」 「つまんないんだよ」 兵部は、面倒くさいという理由で診断書を偽造した、ということを真島は当然知らない。 何やら勝手に想像して勝手に哀れんだのか、真島は僅かに眉尻を下げて困った顔をした。 疑われるよりはずっと安全だ、と兵部は心の中でほくそえむ。 「キャッチボールもだめか?走らなくていいぜ」 「眩しいからきっと捕れないんじゃないかな」 「太陽背中にしてればいいだろ」 「太陽を背負うんだ。昔そんなドラマあったよね」 「知らね」 そっけなく舌を出してそう返すと、兵部はしまった、という顔をして苦笑した。 「ところでさ」 「うん」 「裏門のところにずっと止まってるあの黒塗りの外車、あやしくね?」 ほら、と顎をしゃくって指し示すと、兵部は何やら微妙な表情をしてすぐに目をそらした。 なんだよ、と肘でこづいてもう一度裏門を見やる。 次の瞬間車のドアが開き、非常にあやしい男が降り立った。 どこがあやしいと言われれば、「すべてが」としか答えようがないほどにあやしい。 この暑い中ダークスーツを着込み、うねる髪は背中を覆い隠すほどに長く、しかも髭まで生えている。 年は二十代から三十代といったところだろうか。 長身の男は腕時計をちらりと見て、車に寄りかかり腕を組んだ。 そのまま動かなくなる。誰かを待っているのだろうか。 「なあ、あいつどう見てもカタギじゃねえよな。俺ちょっとセンセーに言ってくるわ」 「え、いやちょっとまっ、」 慌てるように兵部が手を伸ばしたが、真島は俊敏な動作で走っていってしまった。 「ああ、もうあのバカ」 こんな時間に迎えに来たってすぐ帰れるわけないだろう、と呟いて、そのまま金網に背中を預けると再びしゃがみこんだ。 そのうち教師連中がやってきてあのどうみてもカタギに見えないあやしい男は追い払われるだろう。 下手すれば警察沙汰である。 兵部は嘆息して、ぶちぶちと雑草を抜く作業に戻った。 とりあえず、身内だとばれないように知らん顔していよう。 |
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しんと静まり返った部屋で、彼女は途方に暮れた様子だった。 冷たいフローリングの床に座り込み、じっとうつむいている。 長い髪がその冷たい表情を隠していた。 こんこん、と窓を叩く。 藤井さとこは、顔を上げて驚いた表情を見せると、よろりと立ち上がって歩み寄り鍵を開ける。がらりとガラス戸を滑らせた。 「……窓から入ってくるなんて」 「いや、堂々と玄関から入るほど付き合い長くないしね」 何だか間違っているような気もするが、藤井は小さく笑って、彼を招き入れた。 いつもの学生服姿。変わらない笑み。靴を脱いでベランダに放置すると、兵部はためらいなく中へと入った。年頃の女の子の部屋にしては質素で飾り気がない。カーテンも絨毯も白で統一され、可愛らしいぬいぐるみや花が置かれているわけでもない。 唯一、部屋を圧迫するほどに置かれた本棚にみっしりと小説本がおさまっていて、兵部は興味深そうにそれらの背表紙を眺めた。 無言で藤井が部屋を出て行く。 彼女の机に控え目に飾られた写真立てを見て、そっと触れた。 ゆるやかな波動がてのひらを包み、やがて消える。 「……本当、女って不可解な生き物だよね」 ねえ、と振り向かずに言うと、わずかな窓の隙間から、無言で問いかけるような念が届いた。 「別にくっついてこなくても良かったのに」 「……いえ。気になさらないで下さい」 慌てて追いかけた兵部はすぐに見つかった。彼女、つまり藤井さとこの家である。 とりあえずの危険はないだろうと判断して、真木はそっとベランダの見えない位置に姿を隠した。外から見れば不審者以外の何者でもない。 やがて部屋の扉が開いて、盆にティーカップを乗せた藤井が現れた。 小さなテーブルに置いて、兵部に座るよう促す。 「いろいろ、ありがとう」 「なにが?」 「バベルのスキャンダル、あなたでしょう?」 机の上から、一冊の雑誌を取り上げて兵部に差し出す。兵部はそれを受取ろうとはせずにちらりと見ただけですぐに藤井に視線を移した。 彼女が見せたのはどこにでもある低俗な週刊誌だった。芸能人のスキャンダルやら、政治家の不祥事やら、他人の不幸を飯の種にして世論を騒がしているつもりのろくでもない通俗本である。中身を見るまでもなく、おそらくバベルについてあることないこと書き立てて読者の好奇心を煽るようなことを書き連ねてあるのだろう。 「どうかな、そんなことしなくてもその手の雑誌は好き放題やってくれるよ」 「でもすぐに情報規制されちゃったのもの。ここまで深くバベルを追及した記事が出せるのは内部に精通した人の情報が必要だわ」 違うの、と問いかける藤井の挑むような目はまっすぐだった。弟を失ったことに対する怒りや悲しみはもう吹っ切れたかのように、彼女の表情には曇りがない。 兵部は出された紅茶に口をつけずに、行儀悪くテーブルに肘をついた。 「気は済んだかい?」 「え?」 なに、と怪訝な表情を浮かべる藤井に、兵部は意地の悪い笑みを浮かべた。 「君は本当は知ってたんじゃないの?加藤くんが死んでいたこと」 「……どうしてそう思うの」 「あの写真」 そう言って、机の上に遠慮がちに立て掛けられた写真立てを見た。 「読み取れたのは強い恨み。復讐。それは力のない自分にも向けられている。……君はずいぶん最初の段階で僕の正体を見破っていたね?皆本くんのことを疑わしいと言っていた頃からかな?」 カップを持つ藤井の手が震えた。 「皆本を疑っているのは本当だった。だからもし僕が君の心を読んでも、本心だから不審に思うことはない。君は常に僕に何を読み取られても疑われないように心の中に<優先順位>をつけていた。強く念じるのは皆本への疑念。それだけで本音で僕を利用しようとしているのを隠そうとした」 「言葉にするとよく分からないわね」 けれど感情とはそういうものだ、と兵部は言った。 「僕は君には特に興味なかったから本気で君の中を読んだりしなかった」 取り方によってはなかなかひどいセリフだ、と藤井は小さく笑った。 「あの子はね、もう力を使いたくないって、そう考えていたと思うの。けれどバベルに弱みを握られちゃったから、そういうわけにもいかなかったのね。追い詰められて、それで死んじゃった」 力を使いたくなかった。それは何のためか。聞かなくても分かる。きっと、真島に恐れられたのがショックだったのだ。自分より高い能力。いつでも心をのぞかれるかもしれないという困惑。そういったものを嫌でも感じ取っていたのだろう。 「本当はもっと大げさにしてほしかったわ。バベルがその権力をはく奪されるくらい」 でも残念、とカップからたちのぼる湯気を見つめながら零した。 「悪いね」 けれど、バベルを破滅へ導くのはまだもう少し先なんだよ、と。 悪びれなく、兵部は言った。 まわりくどいことをしたんですね、と真木は生徒会に関する資料や七か月前のテロ事件に関する資料を整理しながら、兵部に言った。結局、学院を通して関わったこの事件は些末な雑事として片づけられることになった。何の得にもなっていないし損したというほどの出来事でもない。 「少佐を利用しようとするなら、初めから加藤が歯科に通っていたという情報を流せば良かったのでは?」 「いや、どちらにしろ結果は同じだよ。七か月前の事件を知らない時期に通院歴の情報をもらっても、歯科医がその事件に関わっていたなんて僕らは知らないんだからわざわざ透視したりはしないだろうし。何かしらを感じて歯科医を透視しても、過去の事件について調べるタイミングが違ってくるだけだ。加藤が歯科医とつるんでたと分かったら自然と七か月前の事件へとたどり着いただろう。つまりは同じことだ」 関係のないことだとしても、それを追及するうちに真実が見えてくるものだと兵部は言った。 「情報を収集する上で必要ないことなんてないんだよ」 たとえ全く関係のない情報を入手したとしても、次に起こる出来事の重大な情報になるかもしれない。そうやって積み重ねていくものだ。関係ないからとそこで手を止めて切り捨ててしまえば、次にそれを調べるときに二度手間を食らうことにもなりかねない。 情報とは整理されて積み重ねていくファイルのようなものだ。ただし更新をかけていく必要はあるが。 「しかし、我々パンドラを利用してバベルの評判を落とすのが目的だったとは。まだ子供なのに考えることが大きいですね」 呆れたような顔をする真木に、兵部は読んでいた文庫本から顔を上げて、笑った。 「自分が力不足だと知っていて力のある者をうまく利用しようとする。その心意気は評価に値するね。本当に」 愚かしくて、弱くて、けれども。 そう言う存在もまた愛しいよね、と。 もう二度と会うことはないだろう、クラスメートを思い浮かべながら、そっと本を閉じた。 「少佐、そんな小説本持っていましたっけ?」 おや、と本の表紙を見ながら真木が突っ込んだ。 兵部はにやりと笑うとなかなかぶ厚いそれをガラステーブルに放り投げる。 「彼女の部屋からこっそりくすねてきた。あんなに背伸びして大人びた子なのに、なかなかどうして可愛いよね」 『男を騙す100の方法』 女子高校生が読むにはどうかと思われる本を指でつついて、兵部はげらげらと笑ったのだった。 |
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取り返しのつかないものがある。
ついうっかり口から出た言葉は、なかったことにはできないように。 一度失くしてしまった信頼が、一生傷になるように。 そして、命はひとりにひとつしかないように。 失って初めて気づく大切さ、などと陳腐な歌詞にありがちな感情を、真島は身にしみて理解することとなった。 「嘘だ」 これを、と見せられた真っ白なものを怯えた目で見て、真島は掠れた声で呟いた。 「嘘だ」 そんなはずはない。 「嘘だ!!」 頭をかきむしり、首を振りながら叫ぶ。 「嘘じゃない。ここに加藤がいる」 「少佐……」 感情のない声で告げる兵部に、さすがに真木が止めようとしたが、わずかに上げられた腕はすぐに降ろされた。 医師が手にした白い箱の中には、こじんまりとした骨壺がおさめられていた。 これが人だったのだと、この中にはかつて生きていた友人のなれの果てがあるのだと、そう告げられて冷静でいられるだろうか! 「君はこれを知っていたんだね、先生。通常遺体の身元が分からなければ、解剖して治療痕などで通院歴を調べて特定するだろう?この総合病院で検死解剖された加藤くんはここの歯科に通っていた。なのに身元が分からないままのはずがない。つまり君が隠したんだ。万が一警察が捜査を始めても逃れられるようにカルテも改ざんした」 「……ええ。バベルは彼の死を必死に隠そうとした。私がカルテを改ざんしたのも、バベルの命令によるものだ」 「仲間だったのに?」 「それしかなかった!罪を問われたくなければ協力しろと言ってきたのはあっちだ!それに直接手を汚すわけじゃない。ただ沈黙していればいいと。だから……」 床に崩れ落ち、うなだれたままの真島を痛ましげに見下ろして、医師もまた唇をかみしめて目を閉じた。 「頼む、保護してくれないか」 君たちはバベルを潰せるのだろう、と。 兵部の正体など何も知らないくせに、すがるように男は一歩踏み出して手を広げた。 すかさず真木が割って入り、その腕を乱暴につかむ。 「自分の保身のために仲間の死を隠すか。たいした医者だ。恐れ入るよ」 嘲笑うように言い捨てて、真木に手をはなすよう言った。 「これはおもしろいスキャンダルだね。真木、分かってるな」 「はい。すべて心得ております」 きっと皆本くんも肝が冷えるだろう、と冷笑を浮かべて、静かに涙を流し続ける真島を見下ろした。 「君が彼を怖がってよけいな嫉妬をしている間に、彼はとんでもないことに巻き込まれてしまっていたね。もしちゃんと話をしていたら。君たちが本当に親友だったら、救えた命だったかもしれないぜ?」 兵部の言葉が凶器のように真島の心に突き刺さる。 それは優しさのかけらもない毒だった。 だが、事実でもある。 「君をスカウトできなくて残念だよ」 けれど、君のそういう弱いところが僕は嫌いじゃないよ、と。 小さな声で言って、背を向けた。 特務機関超能力支援研究所B.A.B.E.L.による不祥事発覚。 その見出しはごく一部のメディアで取り上げられたものの、最高責任者である局長および管理下にある職員らには一切無関係の、小さな集団による犯行として内部告発という形で処理された。 兵部たちにしてみればもっと大々的にアピールして彼らの信用を地の底まで落としたかったが、さすがに日本国内においては政府が介入したために報道統制が敷かれたとのことだった。 「つまんないなあ」 そこそこ本気を出せば海外の主要メディアを通じてバッシングを浴びせることもできたが、結局面倒だという理由で却下してしまった。 「七か月前、例のテロリストからの保護を加藤らが求めたとき、それを引き受けて担当になったバベルの職員が、保護する代わりに自分たちに都合のよい情報を持ってくるように言ったそうです。これは上層部には無断の犯罪行為であり、現在その職員とそれに加担した者全員が拘束されました」 淡々と報告する真木は渋い表情である。 あまり後味の良いものではない。しかも、その中心にいて命を奪われたのがまだ年若い少年であり、将来有望なエスパーであればなおさらだ。 「そのグループもテロに加担したことを不問にする、身内にも報告しない、また協力すれば収入をやると上手い言葉に誘われて引き受けたそうです。あの医師を含め彼らは現在バベルによって監視下に置かれていますが……どうなさいますか」 仲間にするか、と真木は兵部に判断を仰ぐ。 だが、彼の上司は飽きた、という顔を隠さずにだらしない格好でソファに横たわり、腕をぶらぶらさせた。 「いいよ。下手に仲間意識の芽生えた彼らを一度に引き込むと内部分裂しかねない。情報担当チームは他にいないわけでもないし、必要ならいくらでもスカウトできるだろ」 彼らに固執することはない、と言われ、真木は小さく会釈で返した。 「加藤の死因は自殺でした。彼の遺体……はもうありませんが、骨は唯一の親族である藤井さとこの元へ返したそうです。自殺の原因は判明しておりません」 「そう」 起き上がって、だるそうに二、三回首を振ると、兵部はソファの背にかけていた上着を羽織った。 「出かけてくる」 「少佐、どちらへ?」 「カノジョのところ」 え、と腕を伸ばして引きとめようとする間もなく、瞬時にして兵部の姿が消えてしまった。 やりきれない気持ちを押しとどめながら、真木は手にしていた書類をぺらぺらとめくった。 この事件が発覚してすぐ、皆本は学校を去った。 チルドレンを監視しているメンバーからの報告では、何やらひどく落ち込んでいるらしいが、その理由が自分の知らないバベルの暗部に失望したためなのか、事件を止めることができなかったからなのかは定かではない。 もし後者であれば、それは傲慢だろう、と真木は思った。 自分たちが七か月前のテロ事件のことを知った時にはすでに加藤は死んでいたのだ。止められたものではないし、自分たちに関わりがあるわけでもない。 だが、保健室で出会った生徒の親友が事件の中心にいたことを知って多少なりともモヤモヤしたものを抱えているは理解できる。 それでも、やはり皆本にも真木にも関係のない、外側の事件であったことに違いはない。 「それよりも少佐はどこへ行ってしまわれたのか」 カノジョ、という聞きなれない単語を耳にした気がするが、きっと疲れのせいで幻聴を聴いたのだろう、と。 そう思うことにした。 |
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行こうか、という兵部の言葉に、はっとして真島は我に帰った。用は済んだとばかりに彼はさっさと部屋を出て行こうとする。真木がそれに無言で続いた。
「ちょっ、待てよ!何なんだ。何を見たんだ?どうしてここへ?説明しろよ!」 「すぐに分かるよ。僕はまだ君のことを友人だと思っている。それが偽りのものでもね。物事には順序というものがある。それに一応君を気遣ってやっている」 「……兵部?」 廊下へ出ると、それまで暗闇の中にいたせいか目が慣れずに視界がぐらついた。 しんと静まり返った消毒液の匂いのする廊下で、兵部の冷たい声だけが響く。 「君の気持ちは分かる。理解したいとは思わないが他人をうらやむ心の弱さは誰にでもあるものだ。だがもう少し相手を見るべきだった」 「なにを、言ってるんだ」 兵部の足取りは迷わず、ただひとつの目的をもってまっすぐに歩く。エレベータの前まで行くと、壁にある案内図を見て真木がボタンを押した。 狭い箱の中で気まずい沈黙が続く。 やがてエレベータは一階に止まった。降りてすぐに、兵部は研究棟から入院棟を抜けて外来病棟へと渡る。患者や病院関係者の姿が目につくようになった。ざわざわと騒がしく、学生服の高校生とスーツ姿の大柄な男の組み合わせも目立たない。 「あっちだね」 ちらりと兵部が振り返って、確認するように真木を見た。 彼が見た案内図を見る。 『歯科⇒』 「……もしかして、加藤が通っていた歯科?」 「知ってるのかい」 「ああ。矯正治療にずっと通っていた」 「ふうん」 それだけ言って、彼は堂々とそちらへ進んでいく。奇妙なことに、何故か看護師や患者の姿はない。 違和感をおぼえて真島は兵部の肩に触れようとしたが、さりげなく真木に阻まれた。 ヒュプノを使って人払いをしたのだと真木には理解できたが、それを教えてやるつもりはなかった。 扉の上のプレートには担当医師の名前が書かれている。 ためらいもなく、兵部が引き戸を開けた。無人の受付を通り過ぎ、奥へと入って行く。 「こんにちは」 「あれ、君は?次の患者さんじゃないようだけれど」 椅子を回転させて白衣の男が立ち上がった。 年は三十台半ばといったところだろうか。おだやかな表情は子供に受けそうである。 「あなたが加藤くんの担当をしていた先生ですね?」 「……加藤くん?」 はて、と眉間に皺を寄せて、考え込む。 「兵部、名前だけで分かるわけないだろう」 一体日々何人の患者を診ていると思うんだ、と真島は抗議しようとしたが、兵部はうっとうしそうに軽く手を振ってそれを制した。 「覚えてないわけないでしょう?あなたの仲間なのだから」 「仲間?」 「そうだよ」 何が気に入らないのか、兵部はひどく不機嫌そうな顔をしていた。ポケットに手を言えれて不遜な態度を隠そうともしない。端正な顔立ちになぜかそのしぐさが様になっていて、見た目通りのお坊ちゃんではないのだと今更ながらに気づく。 「加藤くんは治療のためにここに通っていたわけではない。医者と患者として接触することで周囲にあやしまれないように細工していたのだろう。先生、あなたは七か月前のテロ事件に関与していた、エスパーグループの一員ですね?」 「……え?」 目を見張り、そして真島は医師の腕時計がリミッターであることに気づいた。 エスパーが医者をしていることには何の問題もない。それにこの総合病院には通常よりエスパーの医療従事者が多いことで有名だ。 「証拠は?どうしてこの人が?七か月前のテロ事件って?」 「うるさいな。ちょっと黙っててくれないか」 心底嫌そうに顔をゆがめて兵部が振り返る。 その瞬間、真島は言いようのないプレッシャーを感じて冷や汗が出た。胸を上から押さえつけられるような圧迫感。指一本動かせなくなって、恐怖に駆られた。 (なんだ、いったい) 兵部京介とは何者なのか。 混乱して、叫びだしそうになるのを必死にこらえるように、てのひらで口元を覆った。 「君の顔写真を件のテロリストのひとりに見せたところ覚えてたよ。うまく整形してごまかしているようだけれど、残念なことにバベルの情報の中に整形前の君の写真がちゃんと残っていてね。データをバベルに掴まれているのが痛かったな」 「なにを言っているのか分からないな。君は何者なんだ?患者ではないのなら、すぐに出て行ってくれないか」 「加藤くんの居場所を教えてくれないか。探してる人がいるんだよ」 「だから、そんな子供は知らない!」 冷静さを失って医師が叫ぶ。 兵部は喉の奥で笑って、肩をすくめてみせた。 「どうして加藤くんが子供だなんて知ってるんだい?」 「…………!」 医師の顔色が変わる。 青ざめた彼を、だが兵部も真木も無表情で見つめた。 「なあ先生。あなたのやっていることは隠蔽工作だ。仲間を裏切ることに良心は痛まないのかな?」 一歩前に進み出て、頭ひとつ分高い場所にある医師を見上げた。 「ひとついいことを教えてあげよう。僕はバベルと敵対している。その気になればいつでも潰せる。どうだ?」 「え?」 唖然として真島は口から手を離した。 しばらく何事かを考え込んでいた医師だったが、やがてあきらめたようにうなだれる。 そして決意の表情で顔を上げると、兵部の闇色の目をそらさずに見返した。 「バベルの暗部に関わることだ。俺たちにはどうしようもなかった。本当はこんなこと……ッ!」 (なにを言っている?) そんなことより加藤はどこにいるのか。 苛立ちを隠せずに真島が声を上げようとして、だがすぐに兵部によって遮られてしまった。 「僕が引き受けた依頼はすでに完了しているんだよ真島くん。今は君のために動いてやっている」 真島の方を振り返って、やけに優しいまなざしで兵部がそう言った。 「俺の、ため?」 「そうだ」 兵部が引き受けた依頼、というのは、藤井さとこに弟を探してくれと頼まれたことなのだろう、と見当がついた。 だがそれを完了したというのはどういうことなのか。もし本当にそうなら、それはつまり真島自身の目的をも果たしたことになる。 「さあ、先生。加藤くんの居場所へ案内して下さい」 腕を広げて、兵部がにこりと微笑んだ。 |
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