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ああなるほど、と、藤井の真剣な様子に兵部は納得して鷹揚にうなずくと、テーブルの上に両肘をついて指を絡め、顎を置いて身を乗り出した。
心持ち藤井が背筋を正す。 これはこのまま誤解させておくと後々面倒なことになるだろう。 「残念だけど先輩、何か勘違いをしているようですね」 「勘違い?」 何のこと、と首を傾げるしぐさが、外見の大人っぽさと反比例していて可愛らしかった。 高校三年ともなれば大人扱いされもおかしくはない年齢と外見だが、こういった素の顔はまだまだ少女と言っていい。 精いっぱい背伸びをしているうちに本当にぐんぐんと背丈が伸びて、少女から女性へと成長した紅葉を思い出して兵部は微笑ましさと同時に少しだけ寂しさを感じていた。 自分の外見年齢を止めたのは自分自身だけれど、こうやってどんどん子供たちに追い抜かれていくのは嬉しい反面いつまでも時代に取り残されていくということで、孤独であったりもする。 (それを望んだのだけれど) 「そう。僕はバベルの関係者ではない。どちらかというと逆かな」 「逆?どういうこと?あなたは超能力者で、並よりも高いレベルを持っているのでしょう?普通の人々ではありえない」 「うーん。まだまだ知名度が足りないのかな」 苦笑して、紅茶のカップに手を伸ばした。 「保健医の代理として赴任してきた皆本先生は確かにバベルの人間だけど僕は違うよ。彼と共謀して何かを探りにきたわけではない」 「あなたの転校はただの偶然だって言うの?」 「それはない」 彼女のような素人が不審に思うほどに、この潜入作戦は兵部の思いつきと行き当たりばったりでやっているのだ。 わずかな混乱を残しつつも藤井は、それでも、と身を乗り出し、兵部の手を握った。 「協力してほしいの」 「なぜ?」 間髪を入れずに尋ねる。 だが兵部の顔は穏やかで、藤井の反応を楽しんでいるかのようだった。 「何を、とは聞かないのね」 「消えた真島くんの親友を探したい、だろ?」 「そうよ」 あっさり肯定して、藤井は少し安心したように、ケーキの乗った皿を引き寄せた。 兵部がOKと言うのを信じ切っている態度だ。 だが、それもまた分かりやすくていい、と兵部は思った。 大人びた外見と人を信じる無垢な子供っぽさが同居した藤井さとこという少女に興味を引かれる。 「あの子が行方不明になったことに関して、私はバベルを疑っている。なぜなら私たち生徒会は、生徒会としての仕事ではなく秘密裏に情報を取り扱う情報屋をやっているから。仕事のためなら相手がエスパーでもノーマルでも関係ない。犯罪者だったこともあるけどそんなことはどうでもいいのよ」 「それでバベルに目をつけられているって?でもそのことと失踪した子がどう関係するのかな」 「関係しているかどうかは分からない。けれど私たちが違法行為をしていることにバベルが気付いて皆本とかいう人を監視のために潜り込ませたと思っている。もしかしたらあの子はバベルが秘密裏に拉致したかもしれない」 「んー・・・」 いまいち根拠が薄弱だが、まあいいだろう。 (皆本がここへ来たのは過去に起きたエスパー絡みの事件とこの学校に在籍している人間が関わっている可能性がある、というものだった。でもその根拠も曖昧。予知レベルも低い。外れかな?) だがパンドラに属する予知能力者も似たような報告を上げてきたのだ。 しかしその過去の事件と学校在籍者との因果関係と、真島の親友が失踪した理由、そして藤井の言う生徒会がバベルに目をつけられているという話は全部別物である。 兵部が調べる必要があるのは一番目。 気になるのは二番目。 藤井の依頼は二番目と三番目だ。 藤井は真島の親友の失踪と皆本の赴任が同じカテゴリにあると考えている。 (何か面倒なことになってきたな) ひとつひとつの事件はそれほど複雑な匂いはしない。 だが全てを同時に進行していくのは非常に面倒だった。 そもそも藤井はバベルの存在はどちらかと言えば敵側に置いている。 超能力支援研究局という看板を掲げていても、その存在に疑問を持っているエスパーは多い。もちろんノーマルもだ。 藤井は、自分たちがおおっぴらに言えない「やましいこと」を行っている自覚があるからこそ、バベルを警戒するのだろう。 しかしだからといって高校生を拉致するような集団だと勘違いして恐れる様は滑稽だった。 (ざまーみろ) くっくっと咽喉の奥で笑って、兵部はにこやかに言った。 「もう一度質問する。なぜ真島くんの親友のことをそんなに気にするんだい?同じ生徒会のメンバーだから?」 「それもあるけど」 無意識なのだろう、髪を触りながら、藤井は困ったように逡巡して、やがて兵部の目を見た。 「私の弟なの」 差し出されたファイルを見て皆本は唖然とした表情で真木を見上げた。 椅子をすすめたが彼は首を振るだけで、威圧感を出しながらも突っ立っている。 (怖いんですけど) やり合うつもりはない、と言ってはいるが、彼にとって自分は無力な獲物にすぎない。 兵部に忠実に従う限り、殺しはしないだろうが。 「これは」 「知っているはずだ。おまえたちバベルが捜査した七か月前の事件。これにこの学校の在籍者が関わっている可能性がある。おまえはそれを調べにきたのだろう」 違う、とは言えない口調だった。 皆本は冷や汗をかきながらも、なぜ彼がここへきたのかを考えていた。 兵部が生徒として潜りこんだのもこの事件のためか。 そうすると、予知課が弾きだした「確率の低い」案件が信憑性のあるものとしてレベルが上昇したことを意味している。 「どうしてこれを君たちが?いや、それよりどうして僕に教えるんだ?」 もっともな皆本の質問に、真木は無表情のまま答えた。 「俺の仕事の目的のためには捜査をする必要性を感じている」 「つまりてっとり早く僕らから情報を聞き出そうというわけか」 「協力と言っていい」 「それは君の独断か?兵部の指示か?」 「これから指示を仰ぐ」 少佐の命令は絶対だが、命令されなければ行動を起こせないほど部下は馬鹿ではない、と告げて皆本の返事を待つ。 兵部からの連絡はまだない。 PR |
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ついてきて、とそっけなく言って先に歩き出した藤井の後姿をとらえて、兵部は微かな違和感を覚えた。
さっきの、彼女の会話の中で一瞬だけ靄がかかったように不思議な言葉を聞いた気がする。 だがその正体をつきとめようと思考の海を辿る寸前で、ふいに藤井が足を止めて振り向いた。 「ここ」 建物と建物の隙間に窮屈そうに挟まれているビルの、地下へと続く階段を藤井は目線だけで指し示した。 降りていく彼女について狭い階段を降りきると、小さな扉が現れた。 上には看板が掲げられていたが文字は埃だらけで汚れていて読めない。 女子高生が入るにはいささかあやしい場所へ藤井は何のためらいもなく入っていった。 当然兵部もそれについていく。扉は鍵も呪文も必要なくあっさりと開いた。 中から零れてきたのは意外にもクラシックで、古いレコードの音がする。 「いらっしゃいませ」 ごくごく普通のカフェのような内装がいっそうあやしさを際立たせていたが、ふたりを迎えた定員らしき中年の男は愛想笑いを浮かべて奥のテーブルへと案内した。 壁一面に描かれた不恰好な絵や、煌々と店内を照らす明かりに眩暈がしそうだ。 いっそのことタバコの煙がもうもうと立ちこめ、目つきのあやしい男たちが一斉に睨みを利かせてきたりすればまだ良かったのに。 藤井にさとられないように嘆息して案内された席についた。 「ここ、よく来るの?」 「そうね、あんまり遅くまで残っていたら顧問が気にして見に来るから、大体ここでミーティングするわね」 「ミーティング?」 「あ、でも真島くんはまだ誘ったことはないわ。彼は新入りだし、何も知らないの」 「なにが?」 「とばっちりもいいところよね。断ればいいのに、きっと引き受けることで友情が継続するものだと思っている。真島くんを利用しようとしたのは本当だけど、正直私は気が重いわ」 「あのさ」 勝手にぺらぺらとしゃべりだした藤井を制して、兵部は口を挟んだ。 「とりあえず、紅茶注文してもいいかな」 「どうぞ」 どこまでもマイペースな彼女は、どこか、昔姉と慕っていた女性を彷彿とさせて、兵部はちょっとだけ憂鬱になった。 せめて人の話を聞こうよ、と突っ込みたくなる。 手を挙げて店員を呼ぶと、ふたりは紅茶とケーキのティーセットを頼んだ。 途中で話の邪魔をさせたくないのか、藤井はそれらがくるまで話題を変えることにしたようだ。 「そういえばこの間あなたの迎えに来ていたあのおじさん、誰?」 「おじさん・・・」 きっと真木のことだろう。 笑いたくてむずむずしたが、何とか堪えて水の入ったコップを手に取った。 「ええと、保護者みたいな。僕たちの身の回りの世話をしてくれている」 「ふうん。すごくあやしい感じ。ボディガードか何か?」 「まあ、それは当たってる」 勝手に誤解させておいた方が面倒がなくていいだろう、と説明を適当に切り上げたところでタイミングよくケーキと紅茶が運ばれてきた。 火傷しそうなほどに熱いカップをそっと手のひらで包むようにして口をつける。 ふわりと鼻をくすぐるアールグレイの匂いがして、値段の割りになかなかいい葉を使っているようだと兵部は感心した。 ふだん、めったにこういった店に足を踏み入れることはない。 学生生活というのもなかなか楽しいものだ。 「それで、説明してくれないかな先輩」 ティーカップを置いてちらりと上目遣いで藤井を見やれば、彼女はにこりと微笑んだ。 こういう、少女の大人びた表情には覚えがある。 十年ほど前の紅葉そっくりだ、と気づいたのは、長い髪や整った顔立ちだけではないだろう。 どうしてこうも、自分の周りの女性陣は似た雰囲気の人間が集まるのだろうか。 たまにはおしとやかで物静かなやまとなでしこがいてもいいではないか。 「ミーティングというのは生徒会のこと?」 「そうよ。もちろん普通は生徒会室を使うけれど、あそこは十九時をまわると鍵を返さなきゃいけないの。だから時間のかかる会議をするときはいつもここね」 「とばっちりっていうのは、彼が代役を引き受けたことだね」 「あの子は・・・真島くんの親友だったあいつは何も言わずに姿を消した。怒ってもいいのに、真島くんは空いた穴を埋めるように、代わりに会計を引き受けた。顧問は軽い気持ちで一番あの子の身近にいた真島くんに頼んだんでしょうけれど、彼は悲壮な思いで決心したに違いないわ」 「そう思う根拠は?」 「女の勘」 ああ、まただ。 こういうところが幼馴染みの姉とかぶる。 舌打ちしたくなったが堪えて、兵部は苦笑した。 「それで、テレパスの君が僕に何の用?」 彼女のつけているブレスレットを見つめながら肝心なことを尋ねる。 一瞬だけ、わざとらしく左手首の腕時計を見るふりをした。 忙しいんだけど、というのと、これはリミッターである、という二重の意味をもたせていることに彼女は敏感に察知したようで、す、と表情を硬くしてケーキをつついていたフォークを置いた。 「珍しい転校生がくることは直前になって私たちも知らされた。ありえないわ。常識で考えればもっと早くに連絡があるはずだもの。少し疑いながら初日のあなたを観察してみればどうやらエスパーらしい。ちょうど数日前から代理の保健医もきた。調べてみれば彼がバベルの関係者だということが分かった」 「へえ、なかなかやるね」 からかうように茶々を入れたが藤井は僅かに片方の眉を上げただけで、特に反応しなかった。 「単刀直入に聞きます。あなたたちは私たちを監視するためにきたのでしょう?」 やや身を乗り出すようにしてそう尋ね、彼女の長い髪が一房テーブルに触れた。 真木は校舎の裏口にある門のそばに車をつけると、携帯のボタンをおした。 見なくても分かる短縮メモリを慣れた手つきで操作して耳に当てる。 十コールほどして、留守電に切り替わった。 用があるならメッセージを残せ、と尊大な首領の声がする。 はじめのうちはそのまま音声案内を使っていたが、おもしろがった葉とふたりしてマニュアルを引っくり返しながら自分の声を録音したものだ。 兵部に携帯へ連絡を入れて本人に繋がる確率は非常に低いため、真木は特に落ち込むことなくそのまま切った。 留守電を入れることはしない。しても無駄なのはとうに経験済みである。 さて、と独特の強い念波を探るも、リミッターをつけているせいなのか兵部の気を感じ取ることはできなかった。 こういうとき、自分が精神感応力者だったら、といつも思う。 真木は数秒だけ迷って、校舎の方へと歩いていくことにした。 この近くに兵部はいない。 だが、一度話をする必要のある相手がまだここにいる。 時計を見るとすでに夕方の五時をまわっていて、表のグラウンドからは部活動をしている生徒たちの掛け声が響いた。裏門から校舎へ続く道に人の気配はなく、ほっとする。 悪目立ちするであろう自分の容姿は熟知していて、だがどうしようもない。 事前に頭に叩き込んでおいた学校内の地図を思い描きながら、さらに人の気配のない廊下へと足を踏み入れた。土足のままでいいのか迷ったが、玄関口には誰もおらずスリッパが用意されているわけでもなかったのでこのままでいいのかと判断して目的地を目指す。 しばらくがらんとした廊下を歩いて、やがて突き当たりの左側に白いドアがあるのを確認した。 保健室、と書かれたプレートをちらりと見上げ、手をかける。 辺りが静まり返っているせいか、ドアを開ける音がやけに大きく響いた。 中を確認すると同時に、こちらに背を向けていた白衣の男が振り返る。 「どうかし・・・え?」 眼鏡の奥の瞳が動揺するように戦慄いて、のけぞった体が椅子の背を押したのかがたんと大きな音がした。 「おまえ・・・兵部の、部下の」 「真木だ」 憮然とした表情でそれだけ言って中へ入り、きちんとドアを閉める。 皆本は唖然とした表情のまま立ち上がった。 やや腰が引けている。 「おまえに聞きたいことがある」 重々しく告げて、とりあえず敵意はないことを知らせるために軽く両手を挙げてみせると、皆本は顔を強張らせたままゆっくりとうなずいた。 |
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「あ」
小さく声を上げて立ち止まった真島に、一歩先を行っていた兵部は足を止めて振り返った。 「どうしたんだい?」 真島の目線を追ってもう一度前方を見ると、背中まで伸ばした長い髪を揺らしながら、女子生徒がこちらへ向かってまっすぐに歩いてくるのが見えた。 背が高くフレームの細い眼鏡をかけている。いかにも優等生、といった雰囲気である。 だが単に頭が良さそう、とも言えない、大人の色気のようなものを感じて兵部は僅かに目を細めた。 制服の袖からのぞく細い手首には繊細な銀色のブレスレット。すらりとした容姿はモデルか何かのようだった。 そう、まるで数年前の紅葉に少し似ている。 おそらくすれ違い男の八割は振り返るだろう、そんなオーラが漂っていた。 (ふうん) 小娘にしては相当な威圧感だ、と感心する。 「藤井先輩」 「だれ?」 「生徒会の副会長。三年の」 「ああ」 そういえば、先日担任がそんな名前を口にしていたように思う。 藤井、というらしい彼女はふたりの前で足を止めて、ほぼ同じ高さにある兵部の顔をちらりと一瞥して、真島へと話しかけた。 「真島くん。悪いんだけど明日の昼休みに予定していたミーティング、中止になっちゃったの。それで次の委員会まで時間がないから、まとめた書類直接私か会長に渡してくれる?教室、分かる?」 「了解っす」 軽い返事にうなずいて、藤井はまた兵部を見た。遠慮のない不躾な視線に思わず苦笑する。 「友達?珍しいわねあなたが誰かと一緒にいるなんて」 「まあ・・・」 紹介してくれる気はないらしい。 仕方なく兵部は自分で名乗ることにした。 「転入生の兵部京介です」 「ああ、あなたが。生徒会副会長の藤井さとこです。あなた変わってるわね」 「ええまあ。よく言われます」 どこが、とは言わなかったが、やはりずけずけと物を言う性格のようだ。 むしろ好ましいとさえ感じる。 思うところを口に出さず表情や目で訴えられるよりは幾分まともと言えるだろう。 何も言わなくても通じる、そんな時代はもうとっくに過ぎたものだと兵部は思っている。 心をよめるのは精神感応系のエスパーの特権であり、そうでない者が何を心の中で訴えようと誰にも伝わらない。 そして何を考えているか分からないと言うと、決まって彼らは言うのだ。 『どうして分かってくれないんだ』と。 「それと真島くん。さっきあなたのクラスの担任が探してたわよ。今日日直の仕事さぼったんでしょう?」 全く悪びれる様子もなくふいに藤井が言った。 真島は舌打ちして肩をすくめる。 「そうだった。悪い兵部、先帰っててくれ」 「ああ、うん。じゃあね」 軽く手を振ると真島は走って校舎へと戻っていってしまった。 何となく、兵部と藤井はそれを見送って、無言のまま見つめう。 おそらく目立っているだろう、そばを通り過ぎる生徒たちがちらちらとこちらを気にしてはすぐに視線をそらして行ってしまう。 「あなた、兵部くんって言ったわよね」 「なにか?」 「真島くんがこんなふうに、また親しい友達をつくるなんて珍しいと思ったから」 さっきもそんな風なことを言っていた。 「彼がなにか?」 「うん・・・ちょっと前に親友だったあの子が学校やめっちゃったから。それ以来いつもひとりでいたから気になって」 「何でやめたんですか?」 真島がほとんど誰とも親しくしようとしないことは知っている。 だからこそ何故自分を気にかけるのか不思議だったが、藤井は何か事情を知っているようだった。 本人がいないところで彼のことを探るのは気が引けたが、このままずっと友人関係を続けるわけではない。 それよりも気になることがあった。 藤井のブレスレット。 「ねえ、時間があるならちょっと話をしない?」 「かまいませんよ」 藤井の誘いに乗ることにしよう。 彼女は手首のブレスレットをもてあそぶようにもう一方の手で触れた。 『私たちを追ってきたの?』 兵部の頭の中に直接、殺意に近いものをこめたメッセージが飛び込んできた。 (テレパス) ブレスレットに注目していた目を上げて彼女の表情をうかがうと、藤井は赤い唇を少し上げてにこりと微笑んだ。 高等部の保健医として、皆本光一が潜入しているようだ。 そう報告を受けた真木はバベルの真意を探るためにもう少し詳しく調査することにした。 そもそも兵部が生徒として学校へ行く、と言い出したのは正体不明のエスパーが何かやらかしそうだ、という実に曖昧な予知のせいである。だがその予知をしたエスパーは現在連絡のとれるパンドラのメンバーの中でもレベルが低く、いつ、どんなことが起こるか全く分からない。 「全く、おもしろがって首を突っ込みたがるから・・・」 誰が何をやらかすのか基本的なことがすっぽ抜けている。 もしかして皆本も兵部と同じように半分おもしろがって潜入してるのではないか、とも考えたが、あの真面目なだけが取り柄であるかのようなノーマルのメガネがそんなことをするだろうか。 いっそ直接皆本に聞いてみようか、とも思う。 兵部のことを気にかける一方で、真木はつい先日手に入れたふたつの資料を眺めていた。 ひとつはずいぶん前に耳にした小さな事件で、その中に登場するエスパーたちに興味があったのだ。 七ヶ月前、A・Bふたつのテロリストグループが戦争状態になった。 そのとき、とあるエスパーのグループがBの情報を収集、それをAに売ったおかげでAが勝利する。 ところがその後自分たちの情報も入手しているだろうとA側がエスパーたちを恐れ口止めのため彼らを襲う。 エスパーたちは戦闘には不慣れなためバベルへ助けを求め、結局テロリストたちはABどちらも逮捕された。 現在裁判中である。 これだけ聞くとたいした力のないエスパー集団のようだが、今真木が欲しいのは戦闘力ではなく情報収集力だった。いまや発足当時兵部を入れても四人だけだったパンドラは大所帯となり、世界各国にメンバーを派遣しては情報収集にあたっている。 だがそれでも手は足りない。 パンドラとしての組織力をさらに巨大なものにするには、世界中のありとあらゆる【情報】を誰よりも早く入手することだ、と真木は考えている。そしてそれを分析し、活用していく。 簡単に言えば「相手の弱みを握って常に有利な立場を保つ」。 (姑息な手だが) もちろん、どんな汚い手を使おうがパンドラと兵部の存在は絶対である。 そしていつでも力ずくの押しの一手が使えるとは思っていない。 そういう、影の地味な、そして汚い仕事を請け負うのは自分だと真木は信じていた。 そして、もうひとつの資料を読みながら深いため息をつく。 「・・・これか」 これはさらに小さな、それでいてこの時代増えているエスパーたちが元となっている事件だった。 まだ十代の若者たちが精神感応の力を使って犯罪者などと非合法な情報交換を行い小遣いを稼いでいる、といったものだ。 エスパーでなくてもこの手の「情報屋」は存在する。そしてそのほとんどは十代・二十代を中心とした若者たちだった。彼らは自分の能力を認めてもらうために危険を顧みず、浅はかな行動に陥る。 大人はそれに気づかない。なぜならその大半は自分の部屋にこもって情報が取引できるからだ。 だが、真木はそれらの若者を糾弾できる立場ではない。 犯罪者が犯罪者を説教したところで笑いものになるだけである。 兵部のことも気になるが、自分の仕事は仕事としてこなさなければならないだろう。 真木は緩めたネクタイをもう一度締めなおしながら壁にかかった時計を見た。 時間は夕方の四時を少しまわったところだ。 仕事に出てくると書置きをして、目立つリビングのテーブルに置いた。 夕食の下ごしらえはばっちりだ。 いつだってどんなに仕事に忙殺されている最中であっても、真木の最優先はたったひとりの存在にあった。 |
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自分と同じくらいの背丈の少年にネクタイを引っ張られて、皆本は慌てて踏ん張った。
「わわ、ちょっ」 「てめえ・・・」 長い前髪からのぞく目は険しく、年頃の少年に似つかわしくない殺気に満ちていた。 自分がこのくらいの年だったとき、こんな目をしただろうか。 皆本は彼が本気であることにいまさら恐怖した。少年の行動にではない、そこまでして人を憎むことがすでにできるということに。 「真島くん」 緊迫した空気に割って入ったのは、何でもないようなのんびりした声だった。 皆本の胸倉を掴む真島の肩に手をおいてなだめるように軽く叩く。 「誤解だよ」 「ああ?」 殺気立った目で睨まれてもまったく物怖じしない様子で、兵部は笑った。 「僕がからかっただけ。この人知り合い」 「・・・知り合い、なのか。この変態と?」 「誰が変態だ!」 思わずいつものように突っ込んで、だが好意のかけらもない顔で睨まれると何も言えなくなる。 兵部が真島の手をひっぱり、皆本から離した。 「僕の妹の、友達の保護者だよ。ね、皆本センセ?」 にやにや笑いながら片目をつむってみせる。 ここで否定しても面倒なことになる。皆本は仕方なく曖昧にうなずいた。 「それよりどうしたんだよ真島くん。授業は?」 「いや、別に。迷わなかったかなって思って」 嘘だ。 本当は体育に出るのが面倒くさい半分、兵部が気になったのが半分。 診断書をもらいに行くとは言ったが、本当は具合が悪いではないかと後をつけてみれば、見知らぬ保健医に襲われている。 ついかっとなって踏み込んだはいいがどうやらおせっかいを焼いてしまったようだ。 真島は恥ずかしくなって、赤面するのをごまかすようにぶっきらぼうに舌打ちした。 「彼は」 「ああ、真島くん。クラスメートだよ」 皆本の、兵部を見る目が気になった。 これは大人が子供に向ける表情だろうか。 兵部は親しげにしているが、『皆本センセ』が兵部に対する態度にはどこか敵意が感じられる。 あまりふたりを一緒にしておきたくはない、と真島は思った。 「診断書、書いてもらったのか?ていうかあんた誰」 「あ、まだ。先生、お願いします」 物分りの良さげな素直な生徒、を一般人の前で演じられた以上、皆本もそれ以上突っかかることはできない。 ここで騒ぎを起こすのは得策ではない。少なくとも兵部は今すぐどうこうしようというわけでもなさそうである。 彼がここにいる理由を、後で薫たちに聞かねばならないだろう。 「休暇をとられた保健の先生の代理で来ました皆本光一です。驚かせてごめん」 デスクの前の丸い椅子に腰掛け、取り繕うかのように笑みを浮かべたが、真島の表情は険しいままだった。 「ええと、診断書。ここ名前書いてくれ。印鑑は?」 「あるよ」 それまで何もなかったはずの手の中に、どこでも見かける安っぽい印鑑が出現した。 上手く真島の死角になっているところで息をするように能力を使ったのか。 呆れて、皆本はため息をついたが、兵部はそしらぬ顔で指し示された場所に判を押した。 「病名は?」 そっと兵部に目配せして、屈んだ兵部に小声で尋ねたが、返ってきた答えに皆本は肩を落とした。 「なんか、テキトーにそれっぽいの書いておいてくれよ」 「おまえな・・・」 そうまでして体育の授業が嫌かジジィ、と思ったが、サイコキネシスを使って無理やり書かされるのはごめんだと、必死でそれらしい 病名を頭に思い浮かべながら『テキトーに』明記する。 「でも病院の診断書をつけないと」 「うん、偽造しとく。病名とか分からないから君の診断書を見て書くよ」 「あのなあ・・・」 それなら始めから全部そうしてくれ、と思わなくもなかったが一応保健医直筆のサインというのは必要なのだろうと勝手に納得しておいた。 「なあまだ?」 腕を組んで壁にもたれていた真島がイライラしながら口を挟んだ。 「先に戻ってていいよ。ていうか君授業行かないのかい?」 さっきも聞いたけど、と尋ねたが、真島はふい、とそっぽ向いて舌打ちした。 「おまえが言うのかよ」 「うーん。分かった、先に行ってて」 暗に、皆本とふたりで話がしたいのだと告げると、友人は一瞬眉をひそめたが、何も言わず保健室を出て行った。 「おまえ、友達ができたのか」 心底驚いたような声音の皆本には答えず兵部は高校生の仮面をはずして、 「そんなことより皆本くん。君がここに来たということは、この学校で何か事件かな?」 「・・・おまえには関係ない」 言って、だがおそらく兵部がここにいる理由も同じなのだろうと皆本は思った。 同じ敷地内にいるため彼女たちの力を借りることがあるかもしれないが、三人の授業の邪魔はできなかった。 自分がここへ潜入したのはバベル職員として最も<養護教員>らしいから、という適当な理由をつけてちょっぴり薫たちの学校生活をのぞいてみたかったのである。中等部と高等部では校舎は違うが、学校の雰囲気だけでも何となく察することができればいい、と思った。 バベルの報告によると、この学校に在籍しているエスパーたちが過去に起こった事件と関わりがある可能性があるとのことだった。皆本やチルドレンが出動した任務ではなかったが、報告書を読み返し、これが本当なら野放しにはできない。 ただ可能性がある、というひどく曖昧なため直接彼女、彼らと接触するには段階を踏む必要がある。 「・・・・ふうん」 しばらく黙って皆本を見つめていたが、やがて何か納得したように兵部は腕を組んだ。 「そういうことか」 「て、ちょっと待て!勝手に人の思考をよむな!」 「垂れ流しにしてる君が悪い。任務についてだらだら脳内で考え事をするなんて、君本当に天才?目の前に僕がいるのに全く警戒心ないじゃないか」 「ぐ・・・それは」 確かにそうだ。 恨めしげな顔の皆本を嘲笑するように喉を鳴らして笑うと、ポケットから紙を取り出した。 「それは?」 「この学校の高等部に在籍しているエスパーのリスト。この中にあやしい動きをする子たちがいる、ていうことだね」 「おまえ、そんな個人情報どこで・・・」 「それを僕に聞くのかい?」 ぶつぶつ文句を言い続ける皆本を無視してリストに目を通す。 クラスごとにリストアップされている名前の羅列はそれほど多くない。だが確かに普通の学校にしてはエスパーの数が多い。バベルが関係しているからだろうか。 ふと、自分のクラスのメンバーを眺めて兵部は目を細めた。 「・・・あれ?」 「どうしたんだ」 「皆本くん。君はこの学校の生徒たちのリストは持っているかい?」 「・・・そういう情報は、言えない」 「持ってるんだ。そうだよね、仕事だもんね」 何も話さないぞ、と言外に告げた皆本だったが華麗に無視された。 「僕のクラスにひとり、知らない名前の生徒がいる」 「え?」 促されて、仕方なく皆本は赴任する前にバベルで渡された、全校生徒のうちエスパーである生徒の名簿を取り出してめくった。 「君は、ええと」 兵部の名前などあるわけがない。 教えられたクラスのページをめくったが、どの生徒のことを言っているのか分からなかった。 「ていうか君は潜入してまだ二日目なんだろう?知らないクラスメートがいて何がおかしいんだ」 「違う。名簿に載ってるはずの生徒について僕は何も知らされていない。出席をとるとき教師はその名前を呼ばなかった。まるで初めから存在していないかのように」 「・・・どういうことだ」 そういえば、と兵部はもう誰もいない扉の方をちらりと見た。 真島は生徒会の代役をしているのだと言った。 「・・・『いなくなったやつ』か」 「え?」 ぽつりと呟いて、再びベッドに腰掛けると億劫そうに上半身を倒してしまった。 勝手に寝るな、と言おうとして立ち上がったが、そのまま目を閉じてしまった兵部に皆本はもう何も言えなくなってしまった。 肩を掴もうとしてそっと腕を伸ばし、そのまま空を切って下ろしてしまう。 棚に無造作に置かれている体温計を見て手に取ったはいいが、結局握り締めたまま皆本はしばらく立ち尽くした。 授業終了を告げるチャイムが鳴るまで、あと三十五分。 |
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体育の授業は受けられないんだ、と、周囲の焦りに逆らって着替えようとしない兵部を不審に思った真島に、彼は笑顔で答えたのだった。
「え?どこか悪いのか」 「うんまあね。虚弱体質ってやつ?」 とてもそうは見えないけれど、彼がそう言うのならそうなのだろう。 もともと色白だし、女性的ではないが体つきは細くて、確かに運動をするというよりは静かに本でも読んでいそうなイメージではある。 そういえば、と兵部の白い顔を見れば、朝見たときより少し赤みが増しているように見えた。 「なあ兵部、おまえやっぱり調子悪いんじゃないのか?保健室行くか?」 言って、真島はざわざと胸が揺らぐのを感じた。 親友が姿を消して以来、真島には気の置ける友人というものは存在しなかった。 周りから距離をおいて、誰にも近づこうとしない。それでいいと思っていた。 なのに、何故この転校生に対して世話を焼こうとしてしまうのか。 担任も、幾度となくふたりが一緒にいるのを見てふたりは仲が良いと思ったのか、この転校生のことはすべて真島に任せているようだった。 冗談じゃない、と思う一方、この不思議と一緒にいても居心地の悪くない兵部となら友達になってもいい、と思う。 同じエスパーだから、というのもあるのだろうか。 (でも俺はこんな力なくて良かった) はじめから何の力もなければ、自分の力の及ばないことが起きてもあきらめられる。仕方なかったのだ、と。 だが、この力を使っても結局誰も助けられないとしたら、ただ邪魔なだけだ。 人の心の中をのぞいて何が楽しいんだ。 「真島くん」 どこまでも暗い思考にひきずられそうになった瞬間、絶妙なタイミングで兵部が声をかけた。 はっとして顔を上げる。 感情の読めない表情がこちらをじっと見つめていた。 「僕やっぱり保健室に行ってくるよ。診断書も書いてもらわないといけないし」 「診断書?」 「うん。体育出られないから、レポート提出で単位に変えてくださいって」 「・・・あ、ああ。そうなんだ」 保健室案内しようか、とジャージの上着を手にしたまま言ったが、兵部は首を振った。 「ううん、大丈夫。購買の先の渡り廊下渡った校舎を左に折れて突き当たり。昨日教えてもらったからひとりで行けるよ」 「そうか、ならいいけど」 これが、相手が女の子だったら意地でもつれていくんだけどな、と考えて、慌てて眉尻を上げた。 あまりしつこくしても迷惑だろう。見たところふらついている様子もないし、本人が大丈夫だと言っているのだし。 「それじゃ、」 ひらりと軽く手を振って兵部は教室を出て行った。 資料室や実験室などが集まる校舎に生徒の姿はなかった。 しんと静まり返った廊下をぺたぺたと歩きながら、兵部は保健室の前で立ち止まる。 調子が悪いのは本当だが、微熱を発するのはここ数年ではしょっちゅうあることで、たいしたことではなかった。 真木や紅葉や葉はこぞって大慌てしてベッドに縛り付けようとするが、そんなことでじっと大人しくしていられる性格ではない。 ここへきたのは別の目的があるからだ。 にやりと笑って扉を軽く叩く。 はて、生徒たちは保健室に入るときノックなどするのだろうか、とも思ったが、急に開けて相手の心臓が止まってはいけないので一応段階を踏むことにした。 「はい、どうぞ」 知った声がして、兵部は引き戸を一気に開けた。 「失礼しまーす」 「やあ、どうした・・・て、えええええええ!?」 椅子に座っていた白衣の男が振り向きざま、素っ頓狂な叫び声を上げて顔を引きつらせた。 衝撃でずり落ちかけた眼鏡を必死で抑えながら立ち上がる。 「ひょっ、兵部!どうしておまえがこんなところに!」 「やあこんにちは、皆本センセ?」 にっこり笑って小さく首を傾げてみせる。 皆本は顔面蒼白になりながら、癖のように白衣の懐に手を差し入れた。 「おや、もしかしてブラスターを装備しているのかい?ないよね?」 「うっ」 そんなものをぶら下げて学校へ来るわけがない。 ぎりぎりと歯軋りしながら、皆本はあとずさった。 がたんと音がして、背中がデスクにぶつかる。 「いやだな、そんなに警戒するなよ。イタイケな高校生に向かって」 「どこがイタイケな高校生だ!おまえ、一体なんのつもりだ・・・!」 まさか薫たちに手を出そうとしているのか、と、何か武器はないかと首を巡らすもデスクにあるのはファイルとノートパソコンくらいで、ぶつけたところで兵部に傷ひとつつけることはできないだろう。 ふと、数年前の小学校での出来事を思い出してごくりと唾を飲み込んだ。 緊迫した空気の中、兵部は飄々と保健室の中へ足を踏み入れた。 「他のパンドラのやつらもいるのか」 「え?」 低い声で問いただすと兵部は不思議そうな顔をして、ふるふると首を振った。 「いないよ。あ、澪が中等部に転入してるけど。ノーマルと馴れ合う必要はないけど、一応一般世間ってものを学んだ方がいいしね」 「じゃあやっぱり薫たちに何か・・・」 「違うって。チルドレンは関係ない。いまのところはね。君だって彼女たちとは無関係の任務でここへきたんだろう?」 くすりと笑って、兵部は皆本の威嚇などものともせずに奥のベッドに座って足を組んだ。 微かに薬品の匂いがする。あとは洗い立てのシーツ匂いだ。開かれた窓からは生徒たちの歓声が聞こえた。 「何故おまえがそんなことを知っているんだ。邪魔しにきたのか?」 息を整えながら、皆本はベッドの上の兵部を見下ろす。 「白衣が似合うね先生?」 「質問に答えろ!」 「そうかっかするなよ。カルシウムが足りないぜ?」 「・・・黙れ」 唸るように呟くと兵部はむっとしたように唇を尖らせて、本当に黙り込んでしまった。 遠くから聞こえる生徒たちの声以外何もない静寂の中で、白いベッドと白衣の男と学生服の少年。 だが現実にここにいるのは保健医でもなければ見た目どおりの少年ではないのだ。 「・・・質問に答えてくれ。ここに何をしにきた」 僅かに声を和らげてみせると、兵部は拗ねたような表情のまま低い声で返した。 「診断書が欲しい」 「・・・・・・・は?」 聞き間違いかと間の抜けた声を上げたが、兵部は変わらず不機嫌そうな表情のまま繰り返した。 「だから、診断書。体育出ないから。別に偽造するのは簡単だけど君が書いてくれるのなら話が早いし、それに」 と、台詞の途中で切って、口の中でもごもごと何か言いかけてから結局やめてしまった。 まるで警戒などしていないかのように足をぶらぶらさせながら、両手をベッドの上についてこちらを見上げる。 皆本は一歩彼に近づいて、ゆっくりと右腕を上げた。 何故そんなことを思いついたのかは分からない。ただ、今なら捕まえられると思った。 そっと兵部の肩を押す。兵部は抵抗もしなければ逃げることもせずに、ぽすんと体を後ろに倒してしまった。 昼間だから、保健室の電灯は消してある。それまで明るかった室内が雲に太陽がさえぎられたのか一瞬暗くなった。 「今なら僕を殺せるかもしれないぜ?」 ほら、とわざとらしく白い首を晒せば、皆本がごくりと唾を飲み込む音がした。 できるはずがない。そんなつもりもないくせに、さあやってみろと誘惑する。 たちが悪い。 通り魔の背中をほらと押すのに似ている。 そろそろとその細い首に右手をかけようとしたところで、がたんと扉が開いて振り返った。 「兵部」 呆然と立ち尽くしてこちらを見ているのは当然皆本の知らない人物で、だが生徒なのだとすぐに理解する。 慌てて兵部の前から立ち退こうとするのと、その生徒が走りこんでくるのがほぼ同時だった。 「てめえ、何やってんだよ!」 「真島、くん?」 寝転がった姿勢のまま兵部が呟いた。驚いたように目を見開いている。 いつもなら人の気配など瞬時に察するだろうに、この様子はどうだろう。 皆本はそれが気になって仕方なかった。 |
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