熱を持った額にぺたりと手を当てると、彼は気持ち良さそうに目を細くして笑った。
ぴぴっと電子音が鳴ってごそごそと細い体温計を取り出す。
38.7度。
平熱が低い兵部にしてみれば動けないほどの体温だったが、だるいを通り越してもはやふわふわしているらしくそれほど機嫌は悪くない。
「風邪かなあ」
「流行りのインフルエンザでなければいいのですが」
「そしたら君にもうつっちゃうかもしれないね」
「俺は構いませんよ」
いくら高レベルのエスパーとは言え人間である。風邪をひいて寝込むこともあれば虫歯で泣きたくなることだってある。だが真木の場合、幸いなことに大病を患ったことはなく、また他人の看病をしていて感染したことはない。
きっと無意識のうちに生体コントロールをしているのだろう、などと兵部は言うが本当にそんな能力が自分にあるのかは分からない。
けれど、兵部の看病をしていてうつることがないのはきっとそれが単なる風邪や病の類ではないせいだろう、と思う。それは決して喜ばしいことではないが。
「こういうときはね、夢を見るんだよ」
「夢ですか」
タオルを氷水に浸してかたく絞りながら、真木は会話に付き合うことにした。
どうせすぐにとろとろと眠りにつくに決まっている。
それでも、きっと暇なのだ。
こうしてベッドに伏せてすでに四日が経過している。
苦しむ様子はないしこうして会話もする。食事も必要最低限を下回ってはいるがお粥を飲みこむことを拒否しない。きっと兵部自身、うんざりしていることだろう。
「昔住んでいた蕾見家の広い庭でね、僕は穴を掘っている。泣きながら必死にね。手はどろどろですりむけて痛いんだけれど、やめようとしないんだ」
「それは当時の記憶ですか?」
「そう。まだ小さな子供だよ」
「どうして泣いているんです?」
「それがねえ……」
苦笑して、じっとこちらを見つめる真木の心配そうな目を見返した。
「覚えてないんだ。たぶん墓を掘っているんだと思うけど」
「墓」
「そう。きっと拾った猫かうさぎか、死んじゃったんだね」
動物が死んでしまったと泣く子供の兵部を想像しようとしたが、真木にはとても無理だった。目の前の人とのギャップが大きすぎて、彼の決してなにものからも目をそらさずにたたずむ姿が邪魔をする。
子供時代の、つまり陸軍時代の兵部の写真を見たことがある。
色褪せたそれに映っているのは真木の知らない、遠い世界の知らない人物でしかなかった。
「僕はその子供を見下ろしてるんだけど」
反応しない真木を無視して兵部は続ける。
「なにをしているんだいって聞いても答えてくれないんだ。そのうち穴はどんどん深くなっていって、もういいんじゃないかって言うと、やっと泣きやむ」
そして、とくすりと笑った。
「どうしたと思う?その子供、つまり昔の僕はぴょんと穴の中へ飛び降りてしまったんだ」
「どういう、ことですか」
嫌な感じがしてつい眉間に皺を寄せると、兵部は額の乗せられたタオルを掴んで両目を覆ってしまった。
「土をかけて、て言うからさ。もうびっくりして」
「少佐」
ああ、それは悪夢ではないのか。
それ以上続きを聞きたくなくて、真木は彼の話をさえぎろうとした。
「小さな僕は体を丸めて、両耳をふさいで目を閉じて、埋めて、て言うんだね。ああ自分の墓を掘っていたのか、と思うととても」
「少佐、もういいです」
とても、愛しく感じたよ、と彼は微笑みながら呟いた。
京介、と遠くで名前を呼ぶ声がする。
京介は大粒の涙を落としながら、手を止めなかった。
ひらひらのスカートをふくらませながら、義理の姉が走り寄る。少し怒っているようだが京介は振り向かなかった。
「なにしているの?」
少女が地面をのぞきこむ。
三十センチほど掘られた小さな穴と、脇に置かれた、白い布でぐるぐる巻きにされた物体を見て彼女は一瞬黙り込んだ。
そのまま京介のとなりに座り込んで、そっと義弟を見る。
白く整った顔は泣いているせいか紅潮していて、きっと誰だってこの子を抱きしめたくなるだろう、と不二子は思った。
「死んじゃったの」
小声で確かめるように言うと、少年がこくりとうなずく。
「そう。かわいそうに」
ぽつりと呟いて、不二子は袖が汚れるのもかまわずに掘り返された土をすくった。
「姉さん」
「ん?」
濡れた声で京介が呼んだ。
彼はこちらを見なかったけれど、涙は少しずつ量を減らして、赤く腫れた目が痛々しくのぞく。やがて腕で顔を乱暴にぬぐって、そして言った。
「僕たちの墓は誰が作ってくれるの?」
誰か泣いてくれるだろうか。
やけに大人びた顔で尋ねる少年は、もう泣いていなかった。
夏が終わる。
少年はきっともう、誰かが死んだと泣くことは二度とないだろう。
<夏の果。晩夏。夏の終わり。>
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船のステップを踏み歩きながらサロンへ戻ってくると、ちょうど兵部がこちらへ歩いてくるところだった。ぎょっとしたのは何やら禍々しいオーラを放っていたからで、思わず真木は足を止める。少佐、と声をかけようとして口を開いたが、兵部はすれ違いざまにちらりとこちらを見て、というよりも軽く睨んでそのまま立ち止まりもせずに上へと上って行ってしまった。
「ちょ、少佐!?」 なんだ、一体何を怒っているのだろう。 きゅうううん、と胃が縮んだように痛むのをさすりながら慌てて追いかける。いつもの学生服姿の兵部は振り返らずすたすたとデッキを歩いて行った。ひどく機嫌が悪いようだ。 対処法は二択ある。というより、二択しかない、と言った方が正しい。ひとつはこのまま機嫌が直るのを待って放置する。もうひとつは怒鳴られようとサイコキネシスで吹っ飛ばされようと、根気よく気分を害した原因を問いただし排除しさらに自分が悪くなくてもひたすら低姿勢で言う事を聞くという方法である。 これが、相手が兵部でなければ迷わず前者を選ぶ。当たり前だ。メンバーのうち何割かの人間には不本意ながら「真木司郎はマゾではないか」などと噂されているが(どうせ葉の仕業だ)、もちろん真木にそんな性癖はない。いや、たぶんない。だから、仮に紅葉や葉やマッスルや年下の仲間たちがイライラしていようと、それとなく様子を見ながらも無理に話しかけるようなことはしない。だが相手が兵部となると話は変わってくる。話しかけるなと言うオーラを出しつつも、こういうときの彼は、つまり構え、と無言で命令しているに過ぎない。構ったところで怒られるのだが、放置しようが構おうが怒られるのなら彼が望むように動くほかないだろう。紅葉あたりに言わせればこの辺りが「真木ドМ説」の原因なのだが、彼は気付いていない。 ともかく、真木は背中で怒っていることを告げている器用な育ての親に声をかけざるを得なかった。 「少佐、どうかされましたか」 おろおろしながらとりあえず自分に何か非があったかを考えてみた。朝はいつも通りちゃんと食卓でいつもの顔ぶれがそろっていたし、兵部のためにカリカリのトーストとハムエッグ、温野菜とスープ、紅茶をそろえた。文句を言わずに口にしていたのでこれはセーフ。その後読書をしたいと図書館にこもり、お茶の時間に呼びに行って焼きたてのパイを切り分け、子供たちと一緒に食べた。そこまではいい。彼もご機嫌だったはずだ。あれからまだ十五分もたっていない。先に食堂を出て洗濯物を畳む作業を自分がしている間に何かあったのだろうか。 「少佐。あの、本当はパイがお気に召さなかったとか…?」 「はあ?」 やっと振り向いてくれた。返ってきたせりふが「はあ?」である。しかも語尾をたっぷり上げた、あからさまに「なに言ってんのおまえバッカじゃないのこのクズ」とでも言いたそうな目をしている。真木は背中が寒くなるのを感じてぶるっと震えた。雷が落ちる、と身をすくめて怒声を覚悟したが、いつまでたっても降ってこない。 (あれ?) そろそろと目を開けるとすでにそこに兵部の姿はなかった。慌てて周囲を見渡し、船の最先端でぼんやり海を眺めている影をとらえて走り寄る。 「少佐……」 兵部の、どこか遠いものを見る目つきにこんどは先ほどとは違う胃のうずきをおぼえた。まるで別の世界を見ているような、心ここにあらずといった雰囲気にどきりとする。目の前にいるはずなのにここにいない、そんな錯覚。 真木は、どんなやつあたりを受けようが構うものか、と、その場にひざまずいた。 「少佐!」 土下座ともとれる格好で頭を垂れて、叫ぶ。 「お願いです、俺に当たってくださってかまいません、ですからどうか……どうかおひとりで悩んだり、苦しんだりしないでください!あなたはもうひとりではないのですから」 そう、自分はもう子供ではないのだ。少しでも彼の負担や苦しみを受け止めることができればと、ただそれだけを願って必死に能力を磨きあげてきたのだ。 「お願いします」 その悲痛ともとれる声音に、兵部はやっと真木の存在に気付いたかのような顔で振り向いた。 「真木」 「はい」 さあ、何を言われるか。頭上から鋭く重い攻撃が降ってきたとしても避けない自信はあった。 「……じゃあ言うけど」 「はい、何なりと」 やはり何かあるのだ。ごくりと唾を飲み込み、必死の面持ちで顔を上げる。白い顔は無表情のまま、どこかうつろな目でこちらをじっと見つめていた。 「すごく痛くて」 「えっ……?痛いって、もしかして……」 冷や汗がじわりとこみかみを伝った。まさか、心臓が?苦しいのを堪えているあまり怒っているように見えたのだろうか。そうだとすればとんだ失態だ。気付かない自分に腹が立つ。 慌てたように立ち上がり、心配そうに背中に手をまわす部下を見上げて、兵部は今度ははっきりと唇を尖らせ拗ねた子供のような顔になった。 「実は朝から右下の奥歯が痛いんだ。おやつを食べるまではちょっとずきずきするくらいだったのにパイを食べたら猛烈に痛くなった」 「……それは」 パイのせいではない。 「それは、虫歯です!!」 「だよねー」 うんうんそうだよね、と二度三度首を縦に振って右の頬を掌で覆う兵部に、真木は一気に脱力してへなへなと床に座り込んでしまった。 「怒っていたわけではないんですね」 「怒ってるさ!だって歯が痛いんだぜ?理不尽だ」 理不尽なのはアンタだ!! などと、もちろん真木は言わない。ただ、先ほどの兵部がやったように遠い目で海を眺めながら、どうせどんなに腕のいい歯医者へ連れて行ったところでまた機嫌を悪くするのだろうな、と途方に暮れたのだった。 PR |
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おまえたちは戻れ、と、当然のように言われたときのあの胸の痛みは何だろう。
澪とカズラが不満そうに頬を膨らませながらも、すぐにけろりとしてサロンを出て行こうとするのを、カガリはひどく苛立った顔で見送った。 パティも少し遅れて彼女たちについていく。 彼女だけはほっとしたような表情をしていて、そういえばここ数日部屋にこもりっぱなしだったなと思い返す。何をしているのか詳しくは知らないが、パティにはパティなりに忙しくしているらしい。 カガリは、というと、それなりに学校へ行ったり小さな子供たちの面倒を見たりと、暇ではないが仕事をしているというわけでもない。 それが不満でたまらない。 ぐずぐずとなかなか部屋を出て行こうとしないカガリに、真木が眉をひそめた。 「どうした?何かあるのか」 「……いえ、そういうわけでは」 何か話題になるような、ちょっとした報告ごとはなかっただろうか。 少しでもこの場所にとどまろうとして脳をフル回転させるが、日常をただ学生らしく(犯罪者集団であるという世間的な目はともかくとして)過ごしている彼が組織の幹部に報告すべき重要なことなどあるわけがない。 「カガリ?」 怪訝そうに重ねて真木が問いかける。 早く出ていけ、と言外に告げられている気がして、カガリは肩を落とした。 自分が出ていけばあとはこのサロンに残るのは真木と兵部のふたりになる。 日中、チルドレンたちの監視を任されたカガリたちの他愛のない報告を聞いた後は、おそらく仕事の話にうつるのだろう。 自分には関係のない話だ。 悔しいのだろうか。まるで、役に立たない子供のように扱われることに。 「ふふ」 小さく笑う声が聞こえてはっと顔をあげた。 優しい色をたたえる闇色の瞳と視線がぶつかって、慌てたようにカガリが帽子に手をやる。 ぺこりと頭を下げて出て行こうときびすを返したカガリに、兵部が声をかけた。 「かまわない。やることがないならここにいなよ」 「え?」 「少佐?」 兵部はソファの上にゆったりと座り、ひじ掛けにもたれるように体を斜めにしながらじっとこちらを見つめている。 吸い込まれそうな目に、だがそらせずにカガリはじんわりと背中が熱くなるのを感じた。 畏怖と敬愛と、うまく表現できないもやもやとした感情がそこにはある。 カガリにとって兵部は神様のような存在だ。決して逆らうことはできないし、逆らおうとも思わない。彼の存在は絶対だしそうであってほしいと思う。 何の疑問もなくついていける人がいるのはなんと幸せなことだろうか。 彼の片腕として働く真木に対しても同じような思いを抱いているが、真木に対しては敬愛というよりも将来の自分を見ているようで、それが願望でもある。 「カガリもいつまでも女の子たちとばかり一緒にいるのは退屈だろう?」 「……ええ、まあ」 確かに、普段はカズラと行動をともにすることが多いが、その時間は成長するにつれて少しずつ短くなってきている。カズラは澪やパティと年頃の女子トークに花を咲かせるし、そうなると自分の存在は邪魔にしかならない。自然と葉や他の少年青年メンバーといるか、ひとりで黙々と勉強をこなすだけだ。 さみしいとは思わないが、まだ少しだけ違和感がある。 幼馴染みの男女はいつまでも一緒にはいられない。 「真木、例の仕事の件を」 「はい、しかし」 ちらりと真木がカガリを見る。 「いいよ。カガリにもわかるように説明してあげて。もしかしたら協力してもらうことになるかもしれない」 「えっ」 間の抜けた声をあげて兵部を見る。 真木も、驚いたようにファイリングされた書類から目を上げた。 「そう驚くことじゃないだろう?そろそろカガリたちにもきちんと仕事を任せる時期だろうし、真木だってひとりで抱えきれないくらいの仕事があるだろう?手が足りないっていつも言ってるじゃないか」 「そうですが、しかしカガリはまだ子供ですよ」 「子供じゃありません!」 思わず声を荒げてしまった。 かっと顔を赤らめてうつむく。 「そうだよね。今のは真木が悪い」 「……すみません」 「じゃ、ないだろ」 からかうような兵部の声音に、真木はカガリの方を向いて、改めて言った。 「すまん」 「い、いえ!そんな」 「カガリだってもう年頃の男の子だもんね。そうだなあ、今回の仕事はともかく、その次にやるつもりの要人警護の仕事はカガリにも手伝ってもらおうかな。メインに幹部連中、フォローにカガリ。それで行く」 な、真木、と同意を求めるような、それでいておそらく兵部の胸の内ではもう決定事項なのだろうことを告げる。 「わかりました。ではメンバーに組み入れます。いいな、カガリ」 「は、はい!」 ふたりから見つめられて、頬を紅潮させながら大げさなほどにうなずいた。 「頼りにしてるよ」 その言葉がたとえ社交辞令的なものであろうと。 嬉しくて嬉しくて、カガリは勢いよく頭を下げて退室のあいさつをすると、船の中を走りはじめた。 カズラに報告しよう。そうだ、きっとうらやましがるだろう。 澪たちではない、幹部のフォローは自分だけに任されたのだ! まずまっさきにカズラに言わないと、という思考自体が子供っぽい優越感だと気づかないうちは、まだまだ子供だな、と遠ざかっていく足音を聞きながら、兵部は小さく笑った。 |
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皆本がしっかりと照準を定め、ブラスターの引き金に指をかけた。 荒廃した街、崩れかけたビル。空を覆う黒煙、そしてひっきりなしに飛び交うヘリとサイレンの音。 遠くで爆発が起こり、熱風がふたりの頬を撫でて空気を焼いていく。 兵部は動かなかった。 いつものように、学生服のズボンのポケットに手を入れたまままっすぐに目の前の男を見つめる。迷いのない闇色の瞳はどこか穏やかだった。 「なぜだ」 喉の奥を振り絞るようにして皆本がうめく。 「なぜ、こんなことに」 「なぜ、だって?その答えを君はもう知っているはずだ」 「分からない。こんな未来は、間違っている」 ブラスターを持つ手が震える。 これでは上手く狙い通り撃てないだろう。 数え切れないほど練習で繰り返した工程はすっかり頭から抜け落ちてしまっている。 皆本は、これでは撃つためではなく彼の足止めをしたいがための、苦し紛れのカードにしか思えなかった。 引き金を引いた時、彼はそこにまだ立っているだろうか。 ふと、そんな気がした。 避けることもせずにそのまま落下していく彼の姿を思い描いて、唇を痛いほどかみしめる。 「予知は外れた。だが、当たっていることもある」 「戦争は起こったが君のせいではなかった。そういうことだな」 「どんな些細なきっかけだろうと、いつかは小さなその火種が起爆剤となる。導火線に一度火がつけばやがて燃え上がるのは時間の問題だろう。その小さなきっかけのひとつが僕であるなら、予知は外れていないことになる。僕が言っているのはそういうことではない」 ひどく遠まわしな言い方だった。 時間を稼いでいるのだろうかとも思ったが、その必要は彼にはないだろう。 むしろ時間が欲しいのはこちらの方だ。 いくらでも引き伸ばして、彼を救えるのならそれがいい。 しかし兵部は眩しそうに目を細めながら、肩をすくめて言った。 「外れたのは、こうして向かい合うのが薫と君ではなく僕と君になっていることだ。当たったのは大規模な戦争を回避できなかったということだね」 「兵部」 「さようなら皆本くん。僕の役目は終わった。さあ、その引き金を引くといい」 それで未来が救えると、そう君が思うのなら。 兵部がす、と右手を差し出す。 「楽しかったよ。ありがとう」 一度でも君と心を通い合わせることができて、とても嬉しかった。 そう告げながら笑みを浮かべ、かつて手を取って抱き合った遠い日々を思っては泣きそうになるのだった。 「うっ……だめだ、泣いちゃう」 「ちょっとパティ、これじゃバッドエンドじゃない!萌えはどこ行ったのさ」 黒巻が、一枚ずつ手渡された原稿用紙を放り出して近くにあった定規をぶんぶん振りまわした。 「私やっぱり小説を書く才能はないみたいです」 「いやそうじゃなくて」 確かに珍しいこともあるものだ、と黒巻は思ったが、反省するところが違う、と突っ込んだ。そもそもそんなことならここまで書き続ける必要もないだろう。つまり気づいた時には遅かった、というやつか。迷惑な話である。 「じゃあこれをプロットにして漫画描けば?」 「そんなことしていたらもう間に合いません!」 「じゃあとりあえずラストシーンまで考えなよ」 わざわざプリントアウトしたからと言われて読んだはいいが、途中で終わっているのがものすごく気持ち悪い。いったいどうしろと言うのだろうか。 「……あのさ」 とても居心地が悪そうに黙っていたカズラが、口を開いた。 ふたりは、ああそういえば居たんだっけ、とちょっぴり失礼なことを思いつつも顔を上げる。 カズラは読み終わった原稿をパティに返しながら、 「最初から漫画にして描き直す暇がないなら、この続きから漫画にすればいいんじゃない?」 「ラストシーンは?」 パティがじっとカズラを見る。 「えーっと……メガネが銃を放り捨てて、少佐に駆け寄ってぎゅってすればいいんじゃないかな」 「……!」 ぱちん、と黒巻が膨らませたガムが割れた。 パティは無表情のまま、じっと考え込む。 「ベタじゃない?」 「でも一番綺麗な終わり方だね」 うなずきながら黒巻が言った。 「成人指定入れるならその後エッチシーンが入るけど」 「ちょっ!」 パティが何でもないことのように言って、カズラはぱっと顔を赤らめた。 「でもそうすると新刊全部R18になっちゃいます」 「いいじゃん」 それがどうした、と言わんばかりに再びガムで風船を作る黒巻に、パティはそれもそうかと納得した顔をする。 ただひとりカズラはむっとしながら、反論した。 「それじゃ誰も読めないじゃない」 |
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「Mでしょ。どう見てもMだって」
「えー。あんた真木ちゃんのどこを見てきたのよ。あれはどう考えてもS。しかもドのつくSに決まってるわ」 「甘いなあ。全然男心分かってない」 「女の勘に外れはないの!」 「勘かよ」 「……おまえら」 低いうなり声をあげながら、ようやく会話の途切れ目を狙って真木は割って入った。 本人のいる目の前で、SだのMだの議論しないでほしい。 いや、いなければいいというものでもない。 何しろここは誰もが自由に出入りする本拠地のリビングルームである。 さきほどから小さな子供たちも何人かやってきては遊んでいるし、コレミツも困った顔で必死に子供たちの相手をしてふたりの会話から遠ざけようとがんばっていた。 ちなみにマッスルは口出ししたそうにこちらをチラチラ見ながらも、賢明なことに子供の世話に余念がない。ああ見えて、彼は子供好きなのだ。 (子供たちが大鎌のマネを始めたらどうしよう) それはともかく、真木がここへ入ってきたのを見ているにもかかわらず、ふたりの口論はヒートアップする一方だった。 「いい加減にしろ。なんで俺が変態なんだ」 「あ、真木ちゃんそれは偏見よ。SやMだから変態っていうわけじゃないわよ」 「そうだよ。その理屈でいくと俺らのボスはド変態じゃねえか。あ、合ってるか」 「こらこら」 真木は葉の暴言に、ふるふると震えながら炭素で構成した長い髪をのばして、葉の頭を引っぱたいた。 「いってぇ!何すんだよ真木さん!本当のことじゃん!」 「黙れ!少佐を侮辱するなっ」 「してねーよ。本当のこと言っただけだもん」 唇を尖らせて睨む葉に、再び攻撃をしかけようとした真木だったが。 「あれ、何してるのみんな?そんな大騒ぎして」 物音ひとつたてず、兵部が目の前に現れた。 いつもの学生服を着て、だがやはり暑いのか上着の前ボタンをはずしている。 両手をポケットに入れたまま、兵部はふわふわと真木と葉の間に降り立った。 葉が頭をさすりながら文句を言う。 「真木さんがいじめるー」 「んなっ」 とっさに抗議の声を上げようとして、だが一足早く兵部が葉の前にしゃがみこんでよしよしと頭を撫でた。 昔から、兵部はこの末っ子には甘い。 今でさえ同じ目線でじゃれあったり叱ったりしているが、それも結局は子供をあやしたりあしらっているようにしか見えず、葉の要領の良さには感服ものである。 決してうらやましいわけではない。 断じてそんなわけではない。 自分は長男であり、組織のナンバー2なのだ。 「あ、真木ちゃんが嫉妬してる」 バレバレだった。 「なにを言ってるんだ!少佐、葉があなたの……ええと」 陰口、というほど悪意があるわけではない。 だがさすがに、葉が兵部のことをド変態だと言ったので叱りました、とは言えない。 おそらく素直にそんなことを言ってしまえば、その怒りはこちらにも飛び火するのは目に見えている。 「どうせまた葉がいらない口を叩いたんだろう。いちいち怒るなよ真木」 いやどう考えても事実を知って怒り狂うのは兵部である。 真木はこっそり紅葉を見たが、彼女は知らんぷりで雑誌なんかめくっていた。 こういうとき、女性の切り替えの早さは尊敬に値する。 「で、喧嘩の原因はなに?」 いい加減大人になりなよ君たち、と説得力皆無な説教を大人になれない老人が言った。 「真木さんがSかMかで紅葉とディベートしてましたァ」 「……それだけ?」 都合の悪いことは隠すつもりらしい。 だが確かに間違ってはいないので、真木はむっつりと険悪な表情のまま黙ってうなずいた。 兵部がぷぷっと笑って、腕を組む。 「ふーむ。それは難しい問題だね」 「どこがですか!俺はSでもMでもありません!」 「そうかなあ。人は必ずどちらかの資質があるって言うよ。あ、ちなみに僕はどちらかと言えばMっ気があるかも」 「…………え?」 「…………え?」 「…………え?」 幹部三人が同時に声を上げた。 今聞き捨てならない発言を耳にしたような気がする。 ただひとり、紅葉だけはにんまりと笑って納得したように何度かうなずき、だがすぐに興味を失ったように再び雑誌に目を落とした。 「ええと、何言ってんの少佐?あんたどう考えてもサドじゃん?」 ああ、言ってしまった。 これは怒られるぞ、と真木は首をすくめたが、意外なことに兵部は目を丸くして、けたけたと笑いだした。 「いやいや。確かに興味のあるものをいじめるのは大好きだけどね、それってつまりいじめた相手が怒ったり反抗してくるのが楽しいのであって、怒られたり抵抗されて嬉しいってことはMなんじゃないかなあ?」 「う、うーん……」 確かに、究極のSはMである、とも言う。 が、それでは結局誰しもが両方の性質を持っている、という結論になりはしないだろうか。 などと真面目に考えだした真木を横目で見て、兵部は満面の笑みを浮かべた。 「真木はドSだよねえ」 「え!?」 葉が意外だと言わんばかりにぽかんとし、紅葉は無反応だった。 すでにこの論争から離脱しているようだ。 「なんで!?だって真木さんっすよ?少佐に毎日いじられて嬉しがってるじゃん。ドのつくMじゃん!?」 「おまえな……」 よくもまあ、ここまできっぱり言えるな、と据わった目で葉を睨む。 「いいや、真木は普段Mだと思わせておいてなかなか鬼畜だよ。なあ真木?」 「き、鬼畜……!?」 「おかげでいつも僕は大変で……」 「わーわーわー!少佐!そろそろおやつの時間です!冷蔵庫に梅酒ゼリ―がありますからあっちへ行きましょう!行きますよ!!」 にやにやする兵部の言葉を全力で遮って、真木は細い腕をつかみ、慌ててリビングから連れだした。 後ろで葉が何やら叫んでいるが、このさい無視を決め込む。 「こう見えて真木は欲望に忠実だよね?」 ふふ、と笑う兵部に、真木は勘弁して下さいと大きな犬のようにうなだれた。 やっぱりこの人は超ウルトラスーパースペクタル級ドSだった。 |
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