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階段の下まで皆本につきそってもらった薫は、吐き気を覚えながら、階段の手すりにつかまるようにして一歩ずつゆっくりとあがって行った。ちょうど折り返しの踊り場が見えたところで、はっとして目を瞬く。
「あれ……?」 黒い影がふたつ、うずくまるように座っている。 「烏だ……」 ぼんやりと呟いて、だがだんだんとはっきり頭がクリアになっていく。 「京介!」 脳裏に浮かんだ、よく知った名前を叫ぶと薫はついさっきまでの具合の悪さを忘れたように階段を駆け上がった。 「え、薫……?」 胸をおさえてうつむいていた兵部が驚いたように顔を上げる。 同時に、彼の背中をさすりながら心配そうに顔をのぞきこんでいた真木も息を飲んだ。 「クイーン?」 「薫、君、僕たちが見えるのかい?」 「え?見えるけど……」 何言ってるの、と言いかけて、薫はふたりの前にひざをついた。 「どうしたの、大丈夫?」 「うん……ちょっと具合悪くて。それより、確認したいんだけど。君は普通に僕と真木が見えるんだよね?」 「会話してるじゃん。変な京介」 やっぱり具合悪いみたいだね、とてのひらを兵部の額にぺたりとつけた。 「熱はないみたいだけど……」 「うん、それはいいんだ。薫、悪いけどもう一度下に戻って、皆本くんたちに僕らのこと伝えてくれないかな」 「うん、分かった」 うなずいて、薫は勢いよく階段を下りていく。 その背中を見送りながら、兵部と真木は無意識のうちに肩を寄せた。 「おかしいですね。今まで俺とコンタクトがとれなくなっていたことに気付いていないようでした。それに少佐が普段の姿でここにいることにも特に変に感じている様子はなかった」 矛盾だと感じない矛盾。 気味の悪ことが重なって行く。 「もしこれで薫が皆本たちと僕らと、両方と接触できるのであれば僕たちは全員と世界を繋げることができる、はずだ」 「できなかったら?」 「そしたら……」 また、誰かが接触してくるのを待つしかないだろう。 再び台所へと戻ろうとする薫だったが、ふいに違う場所から物音が聞こえて立ち止まった。玄関の方だ。誰かがチャイムを鳴らしているが、居間にいる不二子たちや台所の皆本たちには聞こえていないようだった。 仕方なく玄関へ向かおうとして、はっとした。 (もし、外にいるのが超能部隊の隊長だったら?) 忘れていたむかつきが胸の中を再び浸食していく。 兵部を殺そうとした男。 兵部の人生を狂わせたもの。 チャイムは止まない。急かすように、なんども鳴り続ける。 「なんで誰も聞こえないの?私……いやだよ。見たくない」 震える足は前へ進もうとせず、抗うようにあとずさった。 冷たい壁に背中を預けて助けを求めるように周囲へ視線を配らせる。 「どうして?」 どんどんどん、と扉を叩く重い音がする。 「ごめんください」 穏やかな男の声。 「いやだ!」 動け、と叱咤するように一度強く足を叩いて、どうにかずるずると壁に体重をあずけながらきびすを返す。 「京介くん?いるんだろう?開けてくれないかな」 届け物を持ってきたよ。 聞こえてくる声はどこまでも優しい。 「俺ちょっと薫ちゃんの様子見てくるわ」 そう言って、下ごしらえがひと段落した賢木が手拭きを洗いながら言った。 「ああ、頼む。あとは盛り付けるだけだし」 「僕がやる!」 すっかりお手伝いが板に付いた少年が両手を差し出して手拭を受け取る。 「あのお姉さん大丈夫かな。お医者さん呼んだ方がいいかなあ」 少しだけ大人びたような、心配げな顔をする兵部に皆本は安心させるように笑みを返した。 「お医者さんならいるってば」 「そうだった」 サイコメトリーなんだし、と付け加えようとして、そういえばこの頃の兵部にはどの程度の能力があるのだろう、と考えた。 PR |
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ひととおり二階の部屋を調べて、真木はどこかぼんやりとしている兵部の腕を引いたまま階段をおりようとした。 気になることがあるのだろうが、それが何なのか思い出せず兵部はむっつりと黙り込んだままだ。 彼がそれを思い出すことで事態が進展すればいいのだが。 「ちょっと、待ってくれ」 階段を半分ほど降りたところで兵部が立ち止まった。 「どうしたんですか?」 「待って。なんかすごく気持ち悪い」 「え?」 振り返ると兵部は真っ青な顔色でうなだれ、真木に腕を掴まれたままずるずるとその場にしゃがみこんでしまった。 慌てて背中を抱き寄せて落ちないように支える。 「大丈夫ですか?どうしたんです」 「分からないけど……。だめだ、動けない」 「少佐……」 元気な時はすこぶる元気だが、たまに急に体調を崩すことが合って、それがこんな夢の中でも起きるのかと真木は慌てた。 ここでは自分以外彼を支えられる人物はいない。 紅葉も葉も、パンドラのメンバーは誰もいないのだ。懇意にしている医者も病院もない。 バベルのヤブ医者はいるが現在彼とは繋がらない。 どうすればいいのだろうか。 真木は兵部と同じくらい顔を青くした。 だが自分が動揺していることを、気分が悪いと言っている上司に悟られてはいけない。大丈夫、自分がついているからと、胸を張って言えたらどんなに安心だろうか。 「大丈夫、苦しいわけじゃないんだ。ただ、なんか……」 「少佐?」 「なんか、足が動かなくて吐き気がするんだよ」 階段の中途半端なところでふたりがうずくまっているその一方で、台所では一見平和だった。 客がくる、と子供の兵部は言うが、正確な時間は分からないらしい。 だがその客はよくこの別邸へ訪れるらしく家族同然なのだと言う。 玄関をノックして反応がなければ、きっと勝手口の方へまわってきて扉をたたくだろうと少年は言った。 「その、僕に似ているっていうお客さんはどういう人なんだい?」 まさか血縁者ではないだろう、と僅かな期待と不安と困惑を込めて尋ねると、賢木から手渡されたこんにゃくを切りながら兵部はあっさりと答えた。 「えっと、僕たち特殊部隊の、隊長さん。その人は能力者じゃない普通の人なんだけど、すごく優しいんだ」 「……へえ……」 では兵部の元上司ということになる。 「あれ」 ふいに背後に気配を感じて振り返ると、蒼ざめた顔を隠せない様子で薫が立っていた。 「薫。大丈夫か。どうしたんだ?」 「ご飯まだだよ」 もうちょっと待ってね、と兵部がにこりと笑うのに対して、薫はぎこちない笑みを浮かべようとしたが結局失敗した。 壁に手をついて自身を支えるようにしながら、彼女はあえぐ。 「その人って……」 「その人?隊長さんとやらのことか?」 一体どうしたんだよ、と賢木が心配しながら手をざっと洗って薫に歩み寄った。 熱が出てきたんじゃないのか、と額に手を当てて、そっと眉をひそめる。 「お姉ちゃんもこっそり見たいの?でも具合悪そうだよ。休んでた方がいいよ」 「あ……ううん。平気。見たく、ない」 「そう?」 邪魔してごめんね、と、薫はふらつく足取りで居間へ戻ろうとした。 「薫、何か用事があったんじゃないのかい?」 「あ、そうだった。ちょっと、変に思ったから」 「何を?」 皆本が首を傾げる。 「皆本みたいなこと言うんだな」 「僕?」 「おまえもさっき何か言ってただろ。変な感じがする、もやもやするって」 「そういえば」 薫ちゃんもそうなのか、と尋ねる賢木に、薫は小さくうなずいた。 「変なの。なにか忘れている気がして」 「何を?」 「私たち……。どうしてここにいるんだっけ?」 奇妙な問いかけに、兵部と皆本、賢木は互いに顔を見合わせた。 「どうしてって……。お姉ちゃんたちが迷子だから、ここへ来たんじゃないか」 僕よりずっと大人なのに、六人同時に迷子だなんておかしいな、と兵部が笑う。 「そう、だよね。六人同時に」 (あれ?) また皆本の脳裏の奥でもやっとした白い影がうごめく。 正体の分からない不気味さに一瞬ぞっとしたが、これ以上薫を不安がらせるわけにはいかない。 「ほら、戻ろう。それとも一度上の部屋で休むか?」 「うん……そうしようかな」 まだ食事の支度が整うまで時間がかかる。 薫は皆本に促されるようにして、ニ階へと続く階段へ向かった。 |
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「この状況で我々を招き入れた、それ自体がヒントということはありませんか?」
ふいに思いついたことを話してみる。 兵部は顔を上げて、怪訝そうに首を傾げた。 「どういう意味?」 「いえ、ただの憶測で適当にしゃべっているだけですが。もし本当に少佐が、何か理由があって我々をここへ呼んだのであれば、その時期に関係があるのではないでしょうか」 「時期?」 「はい。場所と時期です」 蕾見男爵別邸であること。 現在が1938年の夏であること。 「漠然としているなあ……。もうちょっと絞り込んで」 「ええと……。あ」 ぽかんと口を開けたまま間の抜けた声が漏れた。 同時に、兵部も何かに思い当ったようにぽんと手をたたく。 「子供しかいない状況」 「俺も思いました。考えてみると、子供である少佐と蕾見不二子がふたりだけで丸二日留守をするというのは珍しいことでは?」 「珍しいも何も、こんなことないし……あ、ちょっと待った。なんか昔そういうことがあったような」 「え?」 ではやはりここは過去なのか? だが兵部は首を振る。 「何となく思い当る節はあるけれど、当時の僕は君たちには会っていないよ。漫画じゃあるまいし並行世界でうんたらかんたらってことは抜きで」 「何があったんです?」 もしかすると、過去の出来事を夢の世界でトレースしているのかもしれない。 「えーっと……」 あまりはっきりと思い出せないのか、兵部は難しい顔で考え込んでしまった。 「じゃあこの豆腐切ってくれ。危ないから皿の上でな」 「はーい」 どうしても手伝う、という子供に、賢木はそう指示をした。 兵部は嬉しそうに返事をすると、台所の隅っこに置いてある踏み台を持ってきて流しの前に置きひょいとのぼった。それでも目線は賢木や皆本よりずっと下にある。 「お兄さんたちは料理上手なの?」 「まあな、男も料理くらいできないともてないぜ」 「ふうん。軍の偉い人は男子厨房に入らずって言うよ。いつも不二子さんが文句言うけど。不二子さん料理なんてしないもんね」 「いやいや、これからの時代料理洗濯掃除に育児、なんでもできるのが男のトレンドってもんだ」 「とれんど?」 和気あいあいと作業をするふたりを微笑ましく見守りながら、玉ねぎの皮をむく。 (あれ) ふいに皆本は小さな違和感を覚えて手を止めた。 「なあ賢木」 「ん?」 兵部が豆腐を皿の上で切ろうと四苦八苦するのを見ながら、賢木が生返事を返す。 「いや、なんか、変じゃないか?」 「何が?」 「何だろう……。こう、もやもやするんだが」 「何言ってるんだよおまえ」 ほらあんまり強く手を置くと豆腐が崩れちまうぞ、と優しく叱りながら賢木はやはり皆本を見ることなくそっけない。 「ちゃっちゃっとやらないと薫ちゃんたちがお腹すかせてるぜ」 「ああ、悪い」 そうだよな、今は料理に集中しないとな。 慌てて作業を再開しながら、それでもやはり何か大切なことを忘れているような気がしてならない。 「あ、そうだ!」 ふいに兵部が声を上げた。 「こら、危ない」 「ごめんなさい。あのさ、実はもうすぐしたらお客さんがくるんだよね」 「客?」 では自分たちがここにいることを知られるとまずいのではないだろうか。 顔を見合わせたふたりに、だが兵部はふるふると首を振った。 「大丈夫、男爵への届け物を持ってくるだけだし。すぐ帰っちゃうと思う。忙しいし」 「知り合いかい?」 「うん」 大きくうなずいて、皆本を見つめた。 「ちょっと、お兄さんに似てる」 「僕に?」 「うん。優しそうなところとか、あと眼鏡かけてるところとかそっくりだよ」 「へえ……」 世界には似た顔の人間が三人いると言うが、時代を隔てて日本に自分と似た人間がいるのなら興味深い。 「こっそりのぞいてもいいかな」 「うん、こっそりね」 皆本がだめもとで提案してみると、意外にもあっさり兵部はうなずいた。 「お兄さんの家族とかじゃないよね?名字違うし」 「うーん、違うんじゃないかな」 「皆本のじーちゃんだったらびっくりだけどな」 「じーちゃん?」 きょとんとする兵部の頭を賢木は笑いながら軽く叩いた。 |
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過去に戻ったわけではないので、この後兵部少年らがどのような行動を起こすのか、また真木や本物の兵部がとった行動でそんな流れになるのか、さっぱり分からない。
ただこの状況下において真木だけが一番現実的なアクションがとれることになる。 「それで、どうしますか」 「そうだな、とりあえず、上の階に行こうかな」 「二階へですか?」 「お腹すいたのかい?」 「いえ……。そういえば何も感じませんね」 目の前にごちそうが並べられれば、何のためらいもなく口にするのだろうか。 「夢のお約束事として一度食事をとってみる?口にする直前で目が覚めるかも」 「俺だけ目が覚めても仕方ないでしょう。現実世界に戻るのなら、少佐も一緒に」 堂々と居間を出て廊下を歩き、エントランスから階段をのぼっていく兵部の腕を掴んだ。触れていないとひとりでどこかへ行ってしまいそうで怖い。 それがまるで子供っぽかったのか、兵部は一度振り向くと微笑んだ。 「大丈夫、どこにも行かないさ。戻るときは一緒に、だろ」 「はい」 もしこのまま永遠に夢の世界から抜け出せなくても、兵部と一緒であればかまわない、と真木は本気で思った。 「こらこら。ネガティブだなおまえ」 「夢の中でも心が読めるんですね」 「ここにいる僕と君は現実と変わらないからね」 理解できるような、できないような。 だが難しいことは放っておけばいい。どうせ夢の中は矛盾だらけのご都合世界だ。 「この階に少佐が昔使っていた部屋が?」 「うん。ちょうど真ん中にね。ちなみに不二子さんの部屋は一番奥だよ」 のぞいてみる?と問われて、真木は憮然とした表情で首を横に振った。 たんにからかっただけらしい兵部は、そのまま何も言わずにかつて使用していた部屋を開けた。 「懐かしいな、この匂い」 「匂い、ですか?俺には分かりませんが」 くんくんと鼻を鳴らしてみたが、特に何の匂いもしない。 「埃っぽい匂いがするけど。分からない?」 言いながらずかずかと中へ入り、部屋の中央でぐるりと辺りを見渡した。 臙脂色の分厚いカーテンはそれだけで値の張ったものだと分かる。 窓の下にはベッド、扉から右側の壁に沿って書棚とクローゼットが奇麗にはめこまれ、対面には学習机が配置されていた。子供の部屋にしては奇麗すぎる。机の上も数冊の辞書が詰まれているだけで鉛筆が転がっている様子もない。 「奇麗なもんだよね」 真木の胸中を読んだように兵部が言った。 「良い子だったんだよね僕」 「それは……」 蕾見男爵へ対する遠慮からですか、と聞こうとして、さすがに無礼だと言葉を飲み込んだ。 それには気付かなかったように、兵部は書棚の方へ歩いていく。 ぎっしりと詰み込まれている本は子供用の読み物と、きっと以前の部屋の主が置きっぱなしにしたのだろう洋書とが半々だった。 一角には本ではなくごちゃごちゃとした小物が置かれている。 「奇麗ですね、これ」 触っていいか分からずに、真木はそっと指をさした。 およそ子供部屋には似つかわしくない、かなり高価そうな小物入れだ。偽物ではない宝石で彩られており、触れるのも怖い。 「オルゴールだね。貰いもの」 「これオルゴールなんですか」 「うん」 短くうなずいて、すぐに視線をそらした。 一瞬顔色が変わったのを敏感に察知して、真木は別の話題を探す。 きっと何か思い入れがあるのだろう。 (俺は知らないことが多すぎる) 知りたくないこともたくさんあるだろう。 彼のすべてを知りたいけれど、積極的に知ろうとする勇気はなかった。 少年時代の兵部を見ても幸運な体験だとは思わなかった。 「これは僕の推測なんだけど」 「はい」 「僕がここへ君たちを巻き込んでしまったのは、何か理由があると思うんだよね。探し物があるとか、やろうとしてできなかったことがあるとか、未練?みたいなやつ」 「やめてくださいよ未練なんて言い方」 「ごめん。でもそんな気がする。君たちがあんまり頼りになりそうにないから、自分できちゃったのかな」 怒るなよ、と手を振りながら、兵部は長身の部下を見上げた。 「1、探してほしいものがある。2、僕の代わりに何かして欲しいことがある。3、君たちに見せたいものがある。さてどれだ?」 「うーん……。なんでしょうね」 何かヒントはないだろうか。 ふたりは黙り込んだまま、腕を組んでうつむいた。 |
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弱ったな、と兵部は詰襟に指をかけながら苦笑いを浮かべた。
自分ひとりが夢の世界をふらふらするのは構わない。懐かしい光景も見れたし、いまとなってはああそんな時代もあったな、と回顧するだけで、ずいぶんと胸の痛みも和らいでいる。 過去を振り返って涙を流さずに泣くのはもうやめてしまった。 いつの間にか生きている今が楽しいと、そう思うようになったからだ。 もう潮時だろうと、このまま停滞していても意味はないだろうと画策してみてもチルドレンと皆本の強い意志によって阻まれてからすっかり開き直ってしまった。 停滞しているのではない、当初予測していたものより大幅に違う方向へ進んでいるのだと。 未来が、ではない。自分が、だ。 もちろんそんなことは誰にも言えないし言わないけれど、どうにも真木あたりには気づかれているのではないかと思う。 (そういや最近っていうかここ数年あいつ反抗的だしなあ) 命令だぞ、と睨み据えても、それが兵部自身のためにならないと判断すればさらりとかわしてしまう技をいつの間にか身につけてしまった。本気で怒れないのはそれが自分を心配しての行為であることに気付くからだ。 自分は変わったのだろうか。 もしそうなら、変えたのは誰だ。 「少佐……」 困惑したような、どこか幼い日の彼を思わせる深い目を見つめて兵部は笑った。 さて、どうしようか。 どうやら自分の姿は真木以外には見えていないようだ。 帰れ、と言っても方法が分からない。 手っ取り早く自分の「本体」が目を覚ませば一件落着しそうだが、残念なことに「ここ」にいる兵部はどうすればいいかさっぱり分からなかった。 寝ているときに、ああ自分は今夢の中にいるのだな、と自覚することはこれまでになかったことだ。ときおり、そういう人間もいるようだが割と珍しい方だろう。 夢の中ではノーマルだろうと空を飛べるし、怪我をしても痛くないし、意味不明な言動をとってもそれがおかしいと気づかない。 ごちそうを目の前にしてさあいただきます、というときになって目覚ましのアラームがなるのはお約束である。 真木は何か言いたげにしているが、どうすればいいか分からないといった表情で悶々と悩んでいる。 兵部は手を伸ばして、真っ黒な長い髪の毛をすくってみた。 「あ、けっこうリアルな感触だな」 ふふ、と声をたてて笑うと、びくりと髪が触手のようにうごめいた。 神経が通っているかのような反応にますますおかしくなる。 「少佐が我々をここへ導いたわけではないのですね?」 ようやく、一番気にしているのだろうことを真木がたずねた。 「違うよ。こんなこと望んだってできることじゃない。僕は自分の夢を操ることはできない」 「では……」 不思議な光景だ。 真木が他の誰にも見えていない兵部と会話をしているのに、誰も気づかない。 ひょっとすると透明な壁が真木と、そのほかの者たちとの間にできているのかもしれない。けれどその透明な壁の向こうでは楽しそうな会話が聞こえてくるのだから、どうやら壁の役割は一方にしか果たされていないようだ。 「真木、ちょっと立ってみて」 「はい」 言われた通り、そろそろと腰を上げる。 誰も気づかない。 「声かけてみて」 「はい」 真木はうなずいて、皆本たちの会話に混ざろうとした。 「すまないが、」 大きくはないがはっきりとした声で割って入る。 だが誰も気に留めることなく、じゃあ今夜の夕食担当は、などと話を続けていた。 会話の中では夕食担当として真木の名前も普通に入っているが、肝心の当人がさっぱり会話に参加していないことに誰も疑問を抱いていない。 「おい、俺の話を……」 「じゃあ、それでいいな。今夜の夕食は僕と真木、それと賢木の三人で作る」 「ずいぶんと男くさい料理になりそうね」 紫穂の言葉にいっせいに笑いが上がった。 「いや、俺は……」 「それじゃちょっと食材を確認してこよう」 「そうだな」 皆本と賢木が立ち上がり、真木を通り越して居間を出ていく。 やはり真木がついてこないことに気付かない。 存在していることは当たり前だと思っているのに、そこに入ってこない真木を誰も何とも思わない矛盾。 このもやもやとする気味の悪さには覚えがある。 「そうだ、夢、だからか」 「そうみたいだね。夢の中ではどんなおかしな状況であっても、それが変だとはなかなか思わないものさ。きっとあいつらの中ではおまえがいることは当たり前で、見えていないことや声が聞こえていないことも当たり前なんだろう」 本物(と思われる)の兵部とコンタクトがとれるようになったと思ったら、今度は一緒にここへ放り込まれた皆本たちと繋がらなくなってしまった。 じゃあいっしょに夕食を食べることもできなくなるのだろうか。 おそらく、ひとりぶん食事が余っていても誰も気づかないだろう。 「仕方ない。真木、君は僕と一緒においで」 「どうするんですか?」 「分からないけど、会話できる者同士が一緒にいた方が安心だろ?」 それはその通りだ。 |
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